う返事さえ出していないというではないか。もし事実その通りだとすると、これほど変なことはない。というのは、ぼくの知っているかぎりでは、君は上京のその日まで道江とは十分親しくしていたし、まさか君が汽車に乗って東京につくまでの間に、仲違《なかたが》いをするような原因が発生するとは思えないからだ。そこで、ぼくは、君の道江にたいするこの変な仕打ちの意味を真剣《しんけん》に考えてみた。その結果、ぼくの下《くだ》した判断はこうだ。君は道江を深く愛している。しかし、それはある事情によって実を結ばない。だから君は永久に道江とわかれる決心をした、そしてその機会を上京に求めたのだと。ぼくは、実は今になって思うのだが、君が卒業間近になって中学を退学しなければならなくなったのを、あんがい平気でしのび得たのは、それが道江からのがれる一つの機会を君に与えることになったからではあるまいか――」
 次郎の心は、一瞬、強く反発《はんぱつ》した。かれにとっては、退学の問題と道江の問題とは何の関係もないことで、正義感によって動いた自分の行動を、一女性に対する私の感情と結びつけて考えられるのは全く心外だったのである。しかし、道江にわかれた時のかれの気持ちが、未練以外の何ものでもなかったことに気がつくと、むしろ、恭一に自分が高く評価されたような気もして、その反発はすぐ羞恥《しゅうち》と自嘲《じちょう》に代わった。
「むろん、ぼくは、君が喜んで道江と別れたとは思わない。君にとっては、それはおそらく退学などとは比べものにならないほどの大きな苦痛であったろうと想像する。それにもかかわらず、君はそれをしのんで道江とわかれる決心をした。そして、その原因になった事情が、おそらくぼく自身に関係したことであるだろうことに思い到《いた》ると、ぼくはいても立ってもいられないような気がして来たのだ。今さら何をいうのか、と君はあるいは怒るかもしれない。しかし、もしあの当時、君の道江にたいする気持ちに、ぼくが、少しでも気がついていたとしたら、君にこんな苦痛をなめさせないでもすんだにちがいない。そう思うと、ぼくは実際たまらなくなるのだ。ぼくは誓《ちか》っていうが、あの当時、道江にとくべつな関心をもっていたわけではなかった。ぼくの道江に対する気持ちは、親類のおとなしい女の子という以上には出ていなかったのだ。また、婚約《こんやく》のことにしたところで、まだ何も正面切っての話があっていたわけではなかった。なるほど、父《とう》さんからは、たった一度だけ、それもごくぼんやりと、ぼくの気持ちをきかれたことがあるにはあった。しかし、その時も、ぼくは、結婚《けっこん》はまだずいぶん先のことだし、ゆっくり考えておきましょうぐらいな、いいかげんな返事をしたにすぎなかったのだ。むろん、ぼくは、はっきり道江をきらいだとは言わなかった。しかし、それは、あんなやさしい子をそんなふうに言う気がしなかったからで、決して異性として、将来の結婚の相手として、いくらかでも心をひかれていたからではなかった。要するに、ぼくは、親類のやさしい女の子として、道江を十分愛しもし、尊敬もしていたが、道江がだれと結婚しようと、その相手がいい人でさえあれば、それは、その当時、ぼくにとってはどうでもいいことだったのだ。では、今はどうか。これがおそらく君にとっても、ぼくにとっても最も大事な問題だと思うが、それについても、ぼくははっきり言うことができる――」
 次郎は思わず息をのんだ。
「道江は、今でも、ぼくにとっては、親類の愛すべき女の子以上の存在ではない。ただその当時と、いくぶんちがっている点があるとすると、それは、彼女《かのじょ》がこの数年の間に読書によってその当時よりはるかに尊敬すべき女性に成長しているということだ。――」
 次郎は、のんだ息を大きく吐《は》いた。そのあと、深い呼吸がしばらくとまらなかった。
「こう言うと、君は、今度はぼくのほうが本心をいつわっていると思うかもしれない。しかし、その疑いを解くのはさほど困難ではない。そのたしかな証拠は、もし君がちょっと骨折ってそれをさがす気にさえなれば、すくなくとも二つは見つかるはすだ、その一つは、先月はじめ、ぼくが父さんに出した手紙であり、もう一つは、それから少しおくれて朝倉先生に出した手紙だ。どちらも、道江との婚約問題についてぼくの考えをたずねられたのに対する返事だが、父さんあての返事には、婚約は、相手のいかんにかかわらず、自分が社会的に独立する目あてがはっきりするまでは絶対にやりたくない。もし道江がそれまで自由な立場にあれば、その時になって、あらためて考えてみることにしたい。しかし、そういうことを先方に通じて、それが少しでも道江を拘束《こうそく》することになっては困るから、いちおうこの話は、打ち
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