した。そのほかにかれが手紙を書いたのは、正木一家と大巻一家とであった。正木の祖父母には、中学入学以来、自然接触がうすらいでいたが、幼時の思い出にはさすがに絶《た》ちがたいものがあり、ことに二人とももう八十に近い高齢《こうれい》なので、遠く隔《へだ》たったらいつまた会えるかわからないという懸念《けねん》もあった。で、上京前にはぜひ一度会っておきたいという気がしていたが、上京の理由を説明するのに気おくれがして、とうとう会わずに来てしまった。その謝罪の意味もふくめて、とくべつ長い手紙を書いたのである。大巻一家は、郷里では眼と鼻の間に住んでいて、こちらの事情は何もかも知りぬいており、上京前には、運平老《うんぺいろう》がわざわざかれのために「壮行会《そうこうかい》」を開いて剣舞《けんぶ》までやって見せてくれたりしていたので、手紙を書くのにも気は楽だった。しかし、その壮行会の席につらなった人たちの中に、恭一と道江《みちえ》という二人の人間がいて、何かにつけ睦《むつま》じく言葉をかわしていたことは、かれにとって消しがたい悩《なや》みの種になっていた。
「恭一さんは、大学はどちらになさるおつもり? 東京? 京都?」
「東京さ。」
「すると来年は次郎さんとあちらでごいっしょね。うらやましいわ。」
「道江さんは、女学校を卒業するの、さ来年だね。」
「ええ。」
「あと、どうする?」
「あたしも、東京に出て、もっと勉強したいわ。でも、うちで許してくれるかしら。」
「そりゃあ、話してみなけりゃあ、わからんよ。」
「恭一さんは賛成してくださる?」
「道江さんが本気で勉強する気なら、むろん賛成するさ。」
次郎はそこまで回想しただけで、もう頭がむしゃくしゃして来るのである。しかも、そのあと、道江はだしぬけに、
「次郎さんも賛成してくださる?」
と、質問をかれのほうに向けた。かれは、その時、
「う、うん、賛成してもいいね。」
と、半ば茶化《ちゃか》したような調子で答えたが、それがゆとりのある茶化し方ではなく、むしろ虚《きょ》をつかれて、どぎまぎした醜態《しゅうたい》をかくすための苦しい方便でしかなかったことは、だれよりもかれ自身が一番よく知っている。その時、道江の顔にうかんだ変な笑い、それは自分に対する痛烈《つうれつ》な軽侮《けいぶ》の表現ではなかったのか。
かれは大巻一家を思い出すと、かな
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