人と馬田と大山のほかには、むろん誰にも見当がつかなかった。次郎は出来るだけそれを秘密にして置きたかったし、馬田は次郎を英雄にするのがいやだったし、大山は新賀がわざわざ秘密にしたものを物識り顔にしゃべりちらすほど、うすっぺらな男でもなかったので、彼らと道づれをしたものも、それについてたしかな根拠のある話は何もきくことが出来なかった。そして次郎に道づれがなくなり、めいめいが自分の家に帰りつくころには、彼らの多くは、主の知れない血書のことよりか、自分自身が血判をした瞬間のことを、より鮮明に思いおこしていたのである。
次郎は、家に帰りついた時には、いつになくつかれていた。昨日来のつづけざまの緊張が急にゆるんだせいか、変に淋しい気持にさえなっていた。彼は何も考えないで、すぐひるねをしたいと思った。しかし一方では、父の顔が見たかった。きょうの学校での出来事について、父と話がしてみたかった。で、いったん二階にあがって畳の上にねころんではみたが、すぐまた起きあがって畑に出た。
俊売はトマト畑にしゃがんで、しきりにわき芽をつんでいた。どこかに出かけて帰って来たばかりなのか、或はこれから出かけるところなのかいつも外出の時に着る白の詰襟服にカンカン帽をかぶり、ステッキまでもっている。次郎が「ただいま」と言うと、ちょっとふりむいて、「きょうはおそかったね。」と言ったきり、わき芽をさがすのに夢中である。
「きょうは校友会の委員会だったんです。朝倉先生のことで。」
次郎は、そう言って、俊亮のすぐわきにしゃがんだ。
「そうか。私もきょうは朝倉先生をおたずねして今帰って来たところだ。」
次郎はおどろいたというよりも、むしろぽかんとして父の顔を見た。
俊亮はただ微笑していた。次郎はそのうちにやっと自分をとりもどしたが、何をどうたずねていいかはまだわからなかった。父が、ゆうべのきょう、さっそく朝倉先生を訪ねたということが、彼にとってはあまりにも意外のことだったのである。
「先生にはお前もながいこと特別のお世話になっていたし、ちょっとごあいさつをしておきたいと思ってね。」
俊亮は、トマトのしげみをのぞきこみながら、しばらくして言った。次郎は、それで、またあきれたように父の顔を見た。まさかもうお別れのごあいさつではあるまい。それにしても、「ごあいさつ」という言葉が気にかかる。父が朝倉先生の辞職をほぼ決定的だと考えているらしいことは、ゆうべの口ぶりからもおおよそ想像されるが、しかし、自分たちが留任運動をはじめようとしていることを知りぬいていながら、何でそんなにごあいさつをいそぐのか、それが彼にはふしぎでならなかったのである。
あるいは留任運動について先生のお気持をさぐりたいためにたずねたのではあるまいか。それが平尾と全く同じ目的ではないにしても、何だかいやな気がする。――彼はもうだまってはいられなくなった。
「ゆうべのこと、先生に話したんですか。」
「話したよ。」
俊亮は平気で答えた。次郎は父がにくらしい気になりながら、せきこんでたずねた。
「先生はどう言っていられたんです。」
「べつに何とも言われなかった。ただ、かわいそうに、と言って気の毒そうな顔をしていられただけだよ。」
次郎は打ちのめされた感じだった。もう何も言う元気がなかった。だまってうなだれていると、俊亮はトマトのわき芽をつむのをやめて立ちあがりながら、
「おまえも一度先生をおたずねするといいね。先生の方でも待っておいでのようだよ。」
「ええ――」
次郎はあいまいな返事をした。そして父がカンカン帽をかぶりなおしながら鶏舎の方に行くのを見おくっていたが、急に自分も立ち上っておも屋の方に行き、二階にかけあがるとぐったりと畳の上に寝ころんで、大きなため息をついた。
四 いろいろの眼
血書は約束どおり、あくる日、始業前に花山校長に提出された。平尾も、田上の勧告で、署名血判には案外すなおに同意した。しかし、みんなを代表して校長室に顔を出すことについては、彼は最初のうちなかなかうんとは言わなかった。田上が、君は総務としてただ顔を出してさえくれればいい、校長との応酬は一切自分がひきうけるから、と、なるだけ彼の責任をかろくするようなことを言ったので、やっとのこと彼も承知したのであった。
校長室における会見の様子は、あとで四人が――と言っても平尾はあまりしゃべらなかったが――みんなに話したところによると、かなり悲哀感をそそるものだったらしい。元来花山校長の鼻は、馬田が次郎のうちで言ったように、実際いかにもちょっぴりしている。恰好だけは、美人の鼻といってもいいほどととのっているのだが、顔の面積に比較して、それがあまりにも小さすぎるのである。血色のわるい、それでいていやにつるつる光っているだだっ広い顔のまんなかに、つつましすぎるほどつつましく、そしてそれ故に安定しすぎるほど安定してくっついているその鼻を、校長就任のその日以来、生徒たちは「ピラミッド遠望」と呼んで鑑賞しているのであるが、それは決して的はずれの形容だとはいえない。生徒間に、それほど安定した印象をあたえているその鼻が、血書を差出した瞬間、ぴくりと動き、しかも多少額の方にずれたように感じられたというのだから、およそ、その場の光景が察しられるであろう。
四人がこもごも語ったところを綜合すると、こうである。――
校長は、最初鼻だけをぴくりと動かしたきり、眼玉も口も動かさなかった。眼玉はテーブルの上の血書に注《そそ》がれていたが、それを読んでいるようには思えなかった。そのうちに、結んだままの口が、うがいでもする時のように、むくむく動き出した。そして、それがやっと開いたかと思うと、しゃがれた女のような声で「これは、知事閣下にも、お見せしなけりゃならんのか。」と、わかりきったことをたずねた。田上が「むろんそうです。」と答えると、またぴくりと鼻を動かし、「こんなものを知事閣下にお見せ出来ると思うのか。君らにはまるで常識がない。どうかそんなむりは言わないでくれ。」と、泣いているのか、怒っているのかわからないような声で言った。四人共、その時は、こんなのが自分たちの学校の校長だろうか、という気がして、実際なさけなかったそうである。田上が「僕たちは朝倉先生の留任さえ実現すればいいのですから、校長先生がそれを保証して下さるなら、血書の処置はお任せしましょう。」と言うと、校長は何と思ったか、急に椅子から立ち上って、四人の顔をひとりびとり念入りに見まわした。そして何度も首をふっていたが、おしまいに、永いため息をついて、「君らの非常識には全くあきれてしまう。朝倉先生の退職は県の方針できまったことだ。県の方針で一旦きまった以上、校長としてはどうにもならないではないか、それが君らにはわからんのか。」と言った。そして、もう一度永いため息をついて、どたりと椅子に腰をおろしたが、いかにも思いなやんでいるように眼をつぶって、ひとりごとのように言った。「そりゃ、朝倉先生が惜しい先生だということは私にもよくわかっている。いや、誰よりも私が一番よくわかっているつもりだ。だから、君らが先生の留任を願い出る気持には心から同情する。しかし、何しろこれは県の方針できまったことなんだから、おたがいにあきらめるより仕方がないではないか。」
それから田上と校長との間に、二三押問答があったが、校長は同じことをくりかえしてはため息をつくだけで、一向らちがあかない。四人のうちでも比較的気短かで、ぶっきらぼうの新賀は、たまりかねたように言った。「では、その願書はお返し下さい。僕たちで直接知事さんに差出しますから。」すると、校長は、いきなり血書をわしづかみにして、大あわてでそれを、かくしにつっこんだ。そしてもう一度椅子から立ち上り、右手を顔のまえに立て、まるでばね仕掛のようにそれを左右にふった。何か言おうとしているらしかったが、四人の耳にはただ「うん、うん」ときこえるだけだった。梅本の言うところでは、校長の鼻がもっと烈しく上の方に移動したように見えたのは、その時だったそうである。新賀はすっかりおこり出してしまった。彼はそれまでみんなのうしろの方に立っていたが、いきなり田上をつきのけるようにして校長の机のまえに寄って行き、乱暴に手をさし出しながら言った。「その願書はわれわれの血でそめたものです。それをむだには出来ません。返して下さい。」校長は、しかし、ただやたらに手をふっているだけだった。
その時、教員室との間の戸ががらりとあいて、教頭の西山先生がはいって来た。西山先生は、三角形のまぶたの奥に小さな眼をいつも鋭く光らせている先生だったが、この時はいやににこにこしていた。手に小さな紙片をもっていたが、それを默って校長に渡すと、すぐまた教員室の方にひきかえした。校長はその紙片を見て何度もうなずいた。そして、それをもみくちゃにして机の下の塵籠《ちりかご》になげこむと、今までとはうって変った落ちつきぶりを見せ、ゆったりと椅子に腰をおろしながら言った。「そうむきになることはない。私はさっきも言ったとおり君らの気持には十分同情しているんだ。君らが血を流して書いたものをまるでむだにするなんて、第一、人間としてそんなことが出来るものではない。幸い今日は県庁に出掛る用事も出来たし、知事閣下に直接お目にかかれるかどうかはわからないが、学務課までにはこの願書を必ず出しておくよ。それで、今度は私の方から君らに願っておきたいが、どうかみんなが落ちついて教室に出るようにしてくれたまえ。変にさわいだりして知事閣下の面目をきずつけるようなことになっては、何もかもぶちこわしになるんだから。いいかね。
新賀はひょうし抜けがして三人をふりかえった。三人もおたがいに顔を見合わせているだけである。すると校長はもう一度、「いいかね、君らを信頼してたのんでおくよ。」と、念を押し、「じゃあ、私はすぐ県庁に出かけなけりゃならんから。」と、あたふたと帽子掛の方に行って帽子をかぶった。そこで四人も默ったまま、校長のあとについて室を出て来た、というのである。
四人の報告は、みんなをふき出させたり、憤慨させたり、不安がらせたりした。しかし、ともかくも血書が県庁に差出されるようになったということで、一応|納得《なっとく》するよりほかなかった。校長が教頭から紙片を受取ったあと、急に様子が変ったということについては、四人をはじめみんなも不審に思い、うまくペテンにかけられたのではないか、などというものがいたが、事情は間もなく判明した。それは、教員室で先生たちがひそかに話しあっていることが、給仕の口をとおして、いちいち生徒の耳にはいって来たからであった。
それによると、血書のことは、もう昨日のうちに警察や憲兵隊の耳にも入り、県の学務課にも通報されていたらしい。今朝はさっそくそのことで学務課の方から電話がかかって来た。校長はちょうどその時四人の代表と会っている最中だったので、教頭が代ってそのことを報告すると、では一応おだやかにその血書を受取るがいい。そして校長自身それをもってすぐ県庁に出頭するように、ということだった。教頭が紙片に書いて校長に渡したのは、そのことだったにちがいない、というのである。
校友会の委員たちは、その日じゅう、めいめいに校長の動静に注意した。休み時間になると、あるものは用もないのに校長室のまえの廊下を何度も往復し、あるものは校庭の遠いところから校長室をそれとなくのぞいて見た。しかし、校長室はいつもからっぽだった。校長は県庁に出て行ったきり、帰ったのかどうかもはっきりしなかった。
校長室がひっそりしているのにひきかえて、教員室は何となく落ちつきがなかった。三人、五人とかたまって立ち話をしている様子が、あけ放した窓から、いつも生徒たちの眼にうつった。また四年や五年の教室に出て来る先生たちの態度にも、ふだんとかなりちがったところがあった。いつも駄じゃれをとばすのを得意にしている先生がいやにまじめだったり、これまで教科書以外
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