くものが言えんからね。」
「いやなやつだね。それで朝倉先生をおたずねしたってこと、平尾が自分で君に話したんかい。」
「ううん、田上にきいたんだ。」
田上というのはもうひとりの総務である。
「田上はいったい、どうなんだ。やっぱり不賛成なのか。」
「いや、あいつは大丈夫だ。平尾のやり方に憤慨して僕にその話をしたぐらいだからね。」
「そうか。しかし総務の二人がそんなふうに対立しているとすると、今日の会議はどうなるんだい。やるにはやるだろうね。」
「そりゃあ、やるとも。もう田上が各部につたえてまわっているはずだ。」
「しかし、総務として、どんなふうに提案するつもりなんだろう。」
「むろん、総務案なんてものはないだろう。田上の話では、白紙でのぞむよりほかないと言っていたよ。」
次郎はちょっと考えていたが、
「しかし、会議を開きさえすれば何とかなるね。」
「そりゃなるとも。平尾なんか問題でないさ。梅本も、平尾ぐらいおれに任しとけって、そう言っていたよ。……ところで、どうしたい、血書は? もう書いたんか。」
「うむ、書いた。」
次郎は笑いながら、紙を巻きつけた左手のくすり指を新賀のまえにつき出した。新賀は、
「ほう、その指をきるんだね。」
と、感心したように見ていたが、
「書いたの、もって来なかったんか。」
「持って来たよ。」
「見せろ。」
次郎は内かくしから血書を出して新賀にわたした。新賀はそれを受取ると食い入るようにそれに見入っていたが最後に大きなため息をつきながら、それを次郎に返そうとした。次郎は、しかし、かぶりをふって、
「それは君にあずけておく。僕が書いたこと、みんなに言わないでくれ。」
新賀はちょっと考えてから、
「うむ。」
と、大きくうなずいて、血書を自分のかくしにしまいこんだ。間もなく始業の鐘が鳴って二人は教室に入ったが、次郎は新賀に血書をあずけて何かほっとした気持だった。
ひる休みごろには、全校の気分が何となくざわめき立っていた。上級生の中には、五人、十人と、あちらこちらに集まって、すでに私的に意見を交換しているらしかった。次郎は、そんな様子を心強くも不安にも感じながら、自分ではなるだけそうした集まりに近づかない工夫をしていた。
授業がすむと、校友会の委員たちは、ある者は考えぶかそうに、ある者ははしゃぎながら、二階の一番おくの教室に集まった。そこは五年の教室のうちで教員室から最も遠い室だった。
みんなが集まると平尾がすぐ教壇に立って、きょうの集まりの趣旨《しゅし》をのべた。彼は最初のうち、朝倉先生に対する讃美の言葉や、その退職を遺憾《いかん》とする意味の言葉を、かなり熱のこもった調子でのべたてた。しかし、終りに近づくにつれて次第にその調子が低くなり、最後につぎのようなことを言って、壇を下った。
「とにかく、一部の委員諸君の希望もあったので、この会議をひらくことにしたが、その結果が、万一にも朝倉先生の御気持にそわないようなことになっては、先生に対してまことに申訳がないと思うから、十分|慎重《しんちょう》に考えて意見をのべてもらいたい。」
みんなは、しばらく、ひょうしぬけがしたように顔を見合わせた。が、すぐあちらこちらに私語《しご》がはじまり、それが、たちまちのうちに、ごったがえすようなそうぞうしい話声となって、室じゅうに入りみだれた。
「このざまは何だ!」
誰かが平尾の方をむいて大声でどなった。
「座長はいったい誰がやるんだ。平尾か、田上か。」
そう言ったのは新賀だった。平尾はあわてたように田上の横顔を見た。田上は、しかし、その眉の濃い、面長な顔をまっすぐ立てたまま、冷然としている。
「きょうは座長は田上がやれ!」
一番うしろの方で誰かが叫んだ。
「いや、僕はやらん。会議の進行は平尾に任してあるんだ。きょうは自由な立場でものを言う約束なんだよ。」
「じゃあ、平尾、さっさと座長席につけ!」
新賀がどなった。平尾はひきつった頬に強いて微笑をうかべながら教壇に上った。そして教卓を前にして椅子に腰をおろすと、
「じゃあ、誰からでもいいから、意見を言ってくれたまえ。」
「意見を言うまえに質問があるんだ。君は、さっき、朝倉先生のお気持がどうだとか言っていたが、そのお気持というのが、君にはわかっているのか。もしわかっているなら、はっきりそれを言ってもらいたいね。」
そう言ったのは梅本だった。奥に何かありそうなその質問の調子が、みんなの注意を彼にひきつけた。
「朝倉先生は、生徒がさわぐのを非常に心配していられるんだ。」
「さわぐというと?」
「例えば留任運動といったようなことをやることだよ。」
「どんな方法でやってもいけない、と言われるんだね。」
「そうだ。自分の進退《しんたい》は自分できめると言われるんだ。」
平尾は、ここだとばかり力をこめて答えた。梅本は、しかし、それをきき流すように、
「ところで、それは君が直接朝倉先生にきいたことかね。」
「むろんだ。」
「いつきいたんだ。」
「実はきのう、先生をおたずねしてみたんだよ。」
「君ひとりで?」
「うむ。」
「何のためにおたずねしたんだ。」
「きょうの会議をやるのに参考になるだろうと思ったからさ。」
「すると、きょうの会議のことを先生に話したんだね。」
「話したさ。それを話さなくちゃ、先生のお考えがわからないんだから。」
「先生のお考えなら、話さなくてもわかりきっているとは思わなかったのか。」
平尾は行きづまって、その狸のような口をいやに固く結んだ。
「平尾君!」
と、梅本は、いつも弁論会の時にやるように、こぶしで自分の前の机を一つたたいて、
「君は、きょうはこの会議の座長たる資格はない! 田上君と代りたまえ。」
みんなの視線が一せいに梅本に集まった。平尾もさすがにきっとなって、
「座長たる資格がない? それはどういう理由だ。」
「われわれは、先生を侮辱した人間を座長にして、先生のことを相談することは出来ないんだ。」
「僕が先生を侮辱したって?」
「侮辱したんだろう。自分でそれがわからんのか。」
「わからんよ。僕はそんなことを言われるのは全く意外だね。」
「平尾君!」
と、もう一度梅本は叫んで、つっ立ちあがった。そのひょうしに今までかけていた腰掛が大きな音を立てて、うしろにひっくりかえった。色の黒い美少年の眼は、らんらんと輝いている。
「君が朝倉先生をおたずねしたのは、先生のお気持をたしかめるためだったんじゃないか。」
「そうだよ。」
「そうすると、君は、先生が或は留任運動を喜ばれるかも知れん、と考えていたわけだろう。それが先生の人格に対する侮辱でないといえるか。」
平尾は、近眼鏡の奥で眼を神経的にぱちぱちさせるだけで、返事をしない。
「どうだ、諸君、諸君はこれを侮辱ではないと思うか。」
と、梅本はぐるりとみんなを見まわした。
「むろん侮辱だ!」
「先生を知らないにもほどがある!」
「留任運動を喜ぶような先生のために、僕らは留任運動をやろうとしているのではないんだ。」
そんな叫び声が方々からきこえた。すると誰かがまぜっかえすように、
「平尾は、朝倉先生をそんな先生だと思っているから、留任運動がやりたくないんだそうだ。」
どっと笑声が起った。それまで平尾は相変らず眼をぱちぱちさしていたが、急に立ちあがって、言った。
「僕は出来るだけ慎重《しんちょう》を期するために、言いかえると、朝倉先生に現在以上のご迷惑がかからないようにと思って、先生をおたずねしたんだ。それが先生に対する侮辱だと言われては、全く残念だ。しかし、諸君の全部がそう思っているとすると、僕がいくら弁解しても駄目だろう。僕は自分では省みて一点のやましいところもないと思うが、梅本君の要求によって、いや諸君の全部の要求によって、いさぎよく座長の席を退こう。しかし、僕が座長の席を退くことは、同時にこの会議の席を退くことを意味するんだ。なぜなら、先生を侮辱したような人間を交えてこの会議を進めることは、諸君にとって迷惑だろうと思うからだ。ただ僕は、この席を退くまえに一言諸君に言っておきたい。それは、諸君にもっと時代というものを知ってもらいたいということだ。時代は今どういう方向に動いているか、それを知らないで、ただ自分の理想だけを追うていると、われわれは、ちょうど金塊を抱いて海の底に沈むような愚を演じなければならないのだ。朝倉先生のようにすぐれた人格者でさえ……」
「ぱか! 何を言うか!」
爆発するようなどなり声が、彼のすぐまえの席から起った。
「貴様は僕らにお説教をする気か。」
「青年はすべからく時代を超越すべし。」
「真理は、永遠だぞ!」
「卑怯者!」
「狸!」
「ひっこむなら、さっさとひっこめ!」
そうした叫びがつぎつぎに起り、中にはもう腕まくりをしているものさえあった。
平尾は土色になってしばらく立往生していたが、あきらめたように壇をおりると、その足でさっさと室を出ていってしまった。
一瞬、さすがにしいんとなって、みんなは彼のうしろ姿を見おくった。すると誰かが、だしぬけに、とん狂な声で叫んだ。
「狸退散!」
それで、また、どっと笑い声が起った。その笑い声を圧するように、新賀がどなった。
「田上! 平尾がいなくなれば君が座長だ。さっさと席につけ。」
田上は今度は元気よく座長席についた。そして、
「さっきからの様子では、留任運動をやることだけは、もう満場一致と見ていいようだが、どうだ。」
「むろんだ!」
「賛成!」
と叫ぶ声が方々からきこえた。
「では、これからその方法を相談する。誰か案があったら、遠慮なく出してくれ。」
「それも、もうきまっているよ。」
いかにも冷やかすような調子でそう言ったのは馬田だった。彼は窓わくに馬乗りにまたがって、足をぶらぶらさせながら、そのしまりのない唇から舌を出したり、ひっこめたりしている。
「どうきまっているんだ。」
と、田上が不愉快そうに彼の方を見た。
「ストライキさ。」
馬田は田上の方を見むきもしないで答えたが、そのあと、すぐまた舌をぺろりと出した。
「いきなりストライキをやろうというのか。」
「いきなりでなくてもいいよ。しかし、どうせやるなら早い方がいいね。」
吹き出すような笑いごえが二三ヵ所でおこった。しかし、多数は、馬田のあまりにもふざけきった調子に憤慨したらしく、むっつりしている。
ストライキ問題は、しかし、そのあと、自然みんなの論議の中心になってしまった。意見はだいたい三つにわかれた。ストライキ即時断行論がその一つで、これは馬田を中心とする不良らしい五六名が、理論も何もなく、まるでおどかすような調子で主張した。第二はストライキ絶対反対論で、主として論陣《ろんじん》を張ったのは梅本だった。第三は、いわは中間派で、情理をつくして留任を懇請《こんせい》し、それがしりぞけられた場合にはストライキもやむを得ない、という意見であった。この意見の主張者は、とくにきまった顔ぶれではなかった。また議論としてさほどききごたえのある発言もなかった。しかしそれは多数の口で主張され、多数によって支持されていたようであった。
そうした意見が交換されている間、次郎も新賀もふしぎに沈默を守っていた。ことに次郎は、自分の存在をなるだけ目立たせないように、注意してでもいるかのように、馬田とはちょうど反対の廊下よりの机によりかかって、しじゅう首をたれていた。梅本と馬田一派とがはげしくやりあっている最中でさえ、彼はちょっとその方をのぞいて見ただけで、すこしも興奮したようなふうはなかった。ただ彼がいくらか緊張したように見えたのは、論議もだいたいつきて、座長の田上が、「では、この問題の決をとりたいが、多数決できめてもいいのか。」と相談をかけた時であった。彼はその瞬間、急に首をもたげて田上を見、つづいて新賀を見た。そしてまさに立ち上りそうな姿勢になった。しかし、彼が立ちあがるまえに、新賀が発言したので、彼はそのまま腰をおちつけて、また首をたれた。
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