なりとも」――の掛軸とに眼をやりながら、いつもにないしんみりした調子で話し出した。それは、彼がまだ一年生のころ、朝倉夫人と二人きりで、その額と軸とを前にして、いろいろと問答をした日のことだった。
 彼の話は、かなり写実的だった。その時の周囲の光景、たとえは窓の日ざしがどんな工合だったとか、卓の上にはどんな花瓶がのっており、それにどんな花が活《い》けてあったとかいったようなことから、夫人がその時着ていた着物の色のことまで、記憶をたどって話した。そして、その時ふたりの間にとりかわされた対話も、出来るだけ直接話法を用いようと努力した。ことに夫人が、最後に、「芦の花って真白でしょう、その真白な花が一面に咲いている中に、真白な鳥がまいこんだというのですわ。」と言って微笑し、「もうこれでおしまい、ほほほ。」と謎のような笑い声をのこして階下におりて行ったところなどは、まったくその時の夫人の言葉そのままだった。
「僕が、その時のことを、どうしてこんなにはっきり思い出すことが出来るのか、僕自身にもふしぎなくらいですが――」
 と、次郎は朝倉夫人の方に眼をやりながらつけ加えた。
「それには理由があると思い
前へ 次へ
全368ページ中278ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング