か、彼はまだ一度もはっきりと道江を自分の恋人として考えたことさえなかった。彼がこれまで馬田と烈しく戦って来たのも、彼自身の意識の表面にあらわれたところでは、あくまでも朝倉先生の一使徒として生きるためであり、道江を馬田の侮辱から護るために心をくだいたのも、彼の正義感に出発したもので、決して自分の恋の競争者に対する挑戦を意味するものではなかったのである。
だが、今は事情がすっかりちがって来た。恭一はどんな意味ででも馬田ではない。彼は朝倉先生のもっともすぐれた使徒の一人であり、同時に自分の肉親の兄でさえある。しかも、自分の知るかぎりでは、彼はすでに道江の将来の夫に予定されている。それは、或は、まだ恭一自身の意志にはなっていないのかも知れない。しかし、「時」はいつ二人をはなれがたいものに結びつけてしまうかもわからないのだ。いや、すでに結びつけつつある。少くとも、道江の方では、彼女の手を伸ばせるだけ伸ばそうとしているのだ。現に彼女は、さっきから、恭一と心の調子をあわせることに一所懸命になっているのではないか。恭一とはふだん遠くはなれていて、ろくに言葉を交わしたこともない彼女が、きょう駅での出来事を恭一にきいたというのが第一おかしい。
そんな考えが混沌《こんとん》とした一種の感情となって彼の心をかきみだした。そして、そのために、彼はいやでも道江に彼の「恋人」を見出し、恭一に彼の恋の競争相手を見出さないでは居れなくなって来たのである。
恋の競争相手が遊蕩児《ゆうとうじ》であり悪漢であることは、恋する人にとって決して不幸なことではない。それは、その人が自分の恋をはっきり意識してため息をつく必要もなく、しかも正義の名において、どのようにも勇敢に恋人のために戦うことが出来るからだ。何といっても、最も不幸な恋は、恋の競争相手が自分の敬愛する人であり、しかも恋の勝利者としての諸条件を自分よりもより多くめぐまれた人の場合であろう。そうした場合、恋する人は、否応《いやおう》なしに自分の苦しい恋をはっきりと意識させられるであろうし、同時に、恋人のためにいさぎよく戦いの矛を収《おさ》めなければならないであろう。しかも、そうすることによって、その恋はいよいよせつないものになって行くのだ。
次郎は、道江の顔に自分の視線をひきつけられた瞬間から、次第にそうしたせつない恋の世界に自分の心がさそいこまれて行くのを感じた。運命は、彼の魂《たましい》のよりどころであった朝倉先生を彼から奪いとったその日に、そして、永い間彼が情熱を傾けて来た学窓生活から彼を逐《お》い出そうとおびやかしはじめたその日に、彼にはっきりと恋を意識させ、しかもその恋の空しいことを意識させたのである。
次郎の視線は力なく道江の顔をはなれた。彼はその視線を一たんは恭一の方に向けかえようとしたが、それは、彼自身でも意識しない心の底のある波動にさまたげられて、畳の上に落ちてしまった。
「次郎さん、やけになったりしちゃあつまりませんわ。お父さんに早くご相談なすったらどう?……ねえ、恭一さん。」
道江が、まだぬれている眼を恭一の方に向けながら言った。
恭一は、しかし、道江には答えないで、しばらく考えたあと、次郎に言った。
「どうだい、父さんにお願いして、今日のうちに曾根少佐のうちに行ってもらっては。」
「曾根少佐のうちに? 父さんが? 何しに行くんだい。」
「あやまりにさ。」
「ばかいってらあ。」
次郎はどなりつけるように言って、鋭い眼を恭一にむけた。が、すぐその眼をおとして、
「あやまる必要があれば、僕が自分であやまるんだ。」
彼は、父がまだ酒屋をしていたころ、自分の無思慮な行為のために、父といっしょに春月亭の内儀にあやまりに行った時のことを思いおこしていた。しかし、曾根少佐に対してとった自分の態度が、あの時のような無思慮なものであったとは、どうしても思えなかったのである。
「じゃあ、自分であやまりに行ったら、どうだい。」
「あやまる必要があるんかい。」
「あるよ。」
「何をあやまるんだい。僕の言ったことは間違っていましたって、あやまるんかい。」
次郎の調子はいかにも皮肉だった。口もとにはかすかな冷笑さえ浮かんでいた。
「問答の内容じゃないよ。いけなかったのは君の態度だよ。」
「僕は乱暴な態度に出た覚《おぼ》えはないんだ。帰りには、きちんと敬礼もして出て来たんだ。」
次郎は、そんなことを言う自分が内心恥ずかしかった。しかし、なぜかあとへは引かれない気持だった。
「敬礼ばかりしたって、口で失礼なことを言やあ、駄目さ。権力で圧迫するなんて、真正面から生徒に言われたら、どんな先生だって怒るよ。」
「しかし、それが本当だから仕方がないじゃないか。ほんとうのことを言われて、それを失礼だと思うなら、
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