こむようにして、先生に一枚の名刺をつき出し、何か小声でささやいた。先生はちょっと困ったような顔をして俊亮の方を見たが、そのまま、その男といっしょに駅長室の方に行った。
そのあと、見送りの人たちがあとからあとからとつめかけた。朝倉夫人は、その一人一人に、「先生は」ときかれて、返事にまごついているようであった。また一方では、先着の見送りの人からつぎつぎにある秘密なささやきがつたわって、変に緊張した空気があたりを支配した。その空気は、俊亮や、恭一や、大沢たちには、発車時刻が近づいて一般乗客の混雑が大きくなるにつれ、かえってはっきり感じられたのだった。
改札がはじまった頃、朝倉先生はやっと駅長室から帰って来た。気のせいか、顔が少し青ざめており、いつもの澄んだ眼の底に、気味わるいほどの冷めたい光がただよっているように見えた。しかし、先生は落ちついた調子で、見送りの人たちにあいさつした。
「皆さん、今日はわざわざありがとうございました。つい、よんどころのないことで駅長室に行っていたものですから、ごあいさつがおくれまして。……」
見送りの人たちの中には、先生に近づいて来て、固い握手を交わしたものも二三人はあった。しかし、その多くは、ちょうどその時、けたたましい音を立てて、駅前の広場を走り出したオートバイに気をとられていた。
間もなくみんなは歩廊に出たが、朝倉先生は俊亮とならんで歩きながら、沈んだ調子で言った。
「さっきのは憲兵でしたがね、やはり、ゆうべのことが問題になっているようでした。しかし、かくすのは却っていけないと思いましたので、ありのままを言って置いたんです。あるいはご迷惑になるようなことになるかも知れません。白鳥会も、おそらくこれまでのように気持よくはやれなくなるでしょう。しかし、白鳥会はまあ仕方がないとして、何より心配なのは次郎君のことですが、……」
俊亮はただうなずいてきいているだけだった。
それから、先生はいよいよ列車にのりこむ直前になって、また俊亮に言った。
「まさかとは思いますが、万一にも次郎君が不幸を見るようなことがありましたら、すぐお知らせ下さい。とにかく中学は出ておく方がいいし、東京でなら何とか方法がありましょうから。」
それにも俊亮はただうなずいたきりだった。
大沢は、以上のことをぶちまけて次郎に話したあと、いかにも感慨《かんがい》深そうに言った。
「きょうは、さすがの先生も、よほど不愉快だったと見えて、最後まで気味のわるい眼付をしていられたよ。僕は、あんな眼付が先生にも出来るのかと思って、不思議な気がしたくらいだ。」
次郎は、最後に見た朝倉先生の険しい眼を、もう一度はっきりと思いうかべた。そして、それが自分を非難する眼であるよりも、むしろ自分のことを心から心配してくれている眼だったということを知って、おどろきもし、うれしくも思う一方、強い愛情のしめ木にかけられる苦しさを覚えた。
次郎の複雑な表情を注意ぶかく見つめていた恭一が言った。
「曾根少佐のうちではどうだったい?」
次郎は、しばらく顔をふせて、考えこんでいるふうだったが、少し言いにくそうに、
「僕、とうとうけんかしちゃったんだ。」
「けんか?」
「まあ!」
恭一と道江とが同時に叫んだ。次郎には、しかし、二人のおどろきが、なぜかうつろなものにきこえた。彼は、なぜということもなく、俊三の方に視線を転じたが、俊三は、むしろ好奇的な眼をして彼のつぎの言葉を待っているかのようだった。
「配属将校を相手にけんかなんかしたんじゃ、いよいようるさいね。」
恭一が言うと、道江がすぐそのあとから、泣くような声で、
「次郎さん、だめね。あたし、きょう、朝倉先生がおたちになったってききましたから、次郎さんはどうしていらっしゃるのかと思って、おたずねしてみたのよ。すると恭一さんから、さっきの大沢さんのお話のようなことをきかしていただいたんでしょう。あたし、それだけでも、もう心配で心配でたまらなかったんですのに。……配属将校って、普通の先生よりよっぽどきびしいっていうんじゃありません?」
次郎は、道江のそんな言草に真実性がないとは思わなかった。しかし、恭一と組みになって自分に話しかけて来るような彼女の態度が、彼の気持をかきみだした。また、彼女が駅での出来事を恭一にきいたと言ったのも、変に彼の耳を刺戟した。
彼は道江の顔をちょっとのぞいたきり、すぐ恭一に向かって抗議するように言った。
「配属将校だから、僕、よけい默って居れなかったんだよ。」
「しかし、今の場合、少し無茶だったね。」
「そうよ、次郎さんはいつも気みじかすぎるわよ。」
また道江が口をはさんだ。次郎は何かかっとするものを胸の中に感じながら、むっつりしていた。すると、大沢が微笑しながら言った。
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