玄関で、次郎が靴をはき終ってうしろをふりかえると、洋間と反対側の日本間の入口から、女の顔がのぞいていた。それはあざけるような眼をした少佐夫人の真白な顔だった。
 そとに出ると、彼の気持は案外おちついていた。言うべきことを憚《はばか》らず言った、というほこらしい気持にさえ彼はなっていた。急にのどの渇きを覚え、むしょうに水がのみたかった。彼は駅前に公共用の水道の蛇口があるのを思い出し、大急ぎでそこまで行きつくと、存分にのどをうるおした。そして、ほっとした気持になって帰途についたが、間もなくまた思い出されたのは、朝倉先生の険しい眼だった。それは不思議なほどあざやかに彼の眼に浮かんで来た。
 とびあがり者!
 そう考えた時に、彼は、駅の待合室で同じことを考えた時以上に、ぎくりとした。それは、ついさっき曾根少佐に対してとった自分の態度が、やはり飛びあがりものの態度ではなかったか、と思ったからである。
 彼は車中の朝倉先生を想像した。夫人と向きあって、相変らず険しい眼をしてじっと何か考えていられる。先生の眼には、もう永久に、あの澄んだ涼しい光はもどって来ない。そんなふうにさえ彼には思えるのだった。
 彼は歩く元気さえなくなり、土手にたどりつくと松かげの熊笹の上にごろりと身を横たえた。そしてじっと青空に眼をこらしたが、その青空からも、朝倉先生の険しい眼が彼を見つめていたのだった。

    一四 残された問題

 次郎は、それから小一時間もたって家に帰って来たが、二階では、大沢、恭一、俊三、それに道江の四人が、額をあつめるようにして、何か話しあっていた。
 次郎があがって行くと、四人は急に話をやめ、一せいに彼の顔を見た。彼は直感的に、四人がそれまで自分のことを話していたにちがいない、という気がした。そして、つっ立ったまま、ほんの一二秒彼らの顔を見くらべたが、道江の眼に出っくわすと、てれくさそうに視線をそらし、默って俊三と大沢の間にわりこんだ。大沢の左に恭一が居り、恭一と俊三との間に道江がいたのである。
 誰もしばらくは口をきくものがなかった。四人は次郎の顔をのぞくようにして、彼が何か言い出すのを待っているかのようだった。次郎はいよいよ変な気がした。
「どうだった?」
 大沢がとうとう口をきった。
「え?」
 と、次郎はけげんそうな顔をしている。
「配属将校に呼ばれたんだろう。」
「ええ、呼ばれました。……知っていたんですか。」
「僕たち、朝倉先生を見送ってから、日進堂で立ち読みをしていたんだよ。」
 日進堂というのは、駅前通りから曾根少佐の家の方にまがる角の本屋なのである。
「ふうん。」
 次郎は、学校に引きかえさないで自分から曾根少佐の自宅を選んだことが、今さらのように腹立たしかった。
「どんな話だった?」
「ゆうべのことです。」
「やっぱりそうだったんか。」
 四人は顔見合わせて、まただまりこんだ。次郎はすこし興奮しながら、
「僕、何もかもすっかり言っちゃったんです。いいでしょう。」
「言ったっていいさ。何も悪いことしたわけじゃないんだから。しかし、朝倉先生には気の毒だったよ。」
「先生がどうかされたんですか。」
「先生も、ゆうべのことで、憲兵の取調べをお受けになったんだよ。」
「いつ?」
「きょう、駅でさ。」
「駅で?」
 次郎は顔が青ざめるほどおどろいた。
 大沢が恭一に補足してもらいながら説明したところによると、こうだった。
 二人は俊亮といっしょに少し早目に駅に行って、見送りの名刺受付の用意をしていた。するとオートバイで乗りつけて来た三十歳あまりの背広の男が、少しせきこんだ調子で、「朝倉さんはまだですか」とたずねた。まだだと答えると、「見えたらすぐお会いしたいのです。」と言って、すぐ駅長室の方に行ったが、間もなくまたやって来て、待合室をぶらぶらしながら、時計ばかり見ていた。俊亮が、「お見送りでしたらお名刺をいただかして下さい。」と言うと、「いや、いいです、お会いすればわかるんですから。」と言う。とその時には、発車までにまだ五十分近くも間があった。
 それから十分あまりたって、朝倉夫人がやって来た。そして三人と話していたが、その男は夫人をじろじろ見るばかりで、何とも言わない。そのころまでは、見送り人もまだ見えなかったので、三人は夫人を相手にゆうべの話をし出して、笑ったり、しんみりなったりしていた。すると、その男がいつの間にか近づいて来て、四人のすぐうしろに立っている。顔をあらぬ方に向けて、耳の神経だけを四人の話声に集中しているといった恰好である。四人は、誰からともなく、口をとじてしまった。
 ちらほら見送りの人が見え出したころ、朝倉先生が人力車で乗りつけた。そして見送りの人たちと挨拶を交わしていると、いきなり、その男が、横から割り
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