しろこれは県の方針できまったことなんだから、おたがいにあきらめるより仕方がないではないか。」
それから田上と校長との間に、二三押問答があったが、校長は同じことをくりかえしてはため息をつくだけで、一向らちがあかない。四人のうちでも比較的気短かで、ぶっきらぼうの新賀は、たまりかねたように言った。「では、その願書はお返し下さい。僕たちで直接知事さんに差出しますから。」すると、校長は、いきなり血書をわしづかみにして、大あわてでそれを、かくしにつっこんだ。そしてもう一度椅子から立ち上り、右手を顔のまえに立て、まるでばね仕掛のようにそれを左右にふった。何か言おうとしているらしかったが、四人の耳にはただ「うん、うん」ときこえるだけだった。梅本の言うところでは、校長の鼻がもっと烈しく上の方に移動したように見えたのは、その時だったそうである。新賀はすっかりおこり出してしまった。彼はそれまでみんなのうしろの方に立っていたが、いきなり田上をつきのけるようにして校長の机のまえに寄って行き、乱暴に手をさし出しながら言った。「その願書はわれわれの血でそめたものです。それをむだには出来ません。返して下さい。」校長は、しかし、ただやたらに手をふっているだけだった。
その時、教員室との間の戸ががらりとあいて、教頭の西山先生がはいって来た。西山先生は、三角形のまぶたの奥に小さな眼をいつも鋭く光らせている先生だったが、この時はいやににこにこしていた。手に小さな紙片をもっていたが、それを默って校長に渡すと、すぐまた教員室の方にひきかえした。校長はその紙片を見て何度もうなずいた。そして、それをもみくちゃにして机の下の塵籠《ちりかご》になげこむと、今までとはうって変った落ちつきぶりを見せ、ゆったりと椅子に腰をおろしながら言った。「そうむきになることはない。私はさっきも言ったとおり君らの気持には十分同情しているんだ。君らが血を流して書いたものをまるでむだにするなんて、第一、人間としてそんなことが出来るものではない。幸い今日は県庁に出掛る用事も出来たし、知事閣下に直接お目にかかれるかどうかはわからないが、学務課までにはこの願書を必ず出しておくよ。それで、今度は私の方から君らに願っておきたいが、どうかみんなが落ちついて教室に出るようにしてくれたまえ。変にさわいだりして知事閣下の面目をきずつけるようなことになって
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