中から一帖のザラ半紙をとり出した。新賀はその中から、いいかげんに何枚かひきぬいて、それをひらひらさせながら、
「余白がなくなったら、これに署名してくれ。あとでいっしょにとじるんだから。」
そのあと、室じゅうが急にざわめき出したが、そのざわめきの底には、異様な不安が流れていた。あるものはこわばった微笑をもらし、あるものはわざとらしく背伸びをした。中には自分の感情をいつわるだけの余裕がなく、いくぶん青ざめた顔をしているものもあった。座長席にいた田上は、誰よりも厳粛な顔をして自分の目のまえの血書を見つめていたが、急に気がついたように万年筆をとりあげ、
「じゃあ、新賀のつぎには、僕に書かしてもらおう。」
と、新賀のやったとおりのことを、かなり手ぎわよくやってのけた。
田上の血判が終ると、五六名がほとんど同時に立ち上って教卓の方につめかけた。その中には梅本や大山もまじっていた。大山は、自分の順番になるのを待っている間に、ひょいと次郎の方をふりむき、
「本田、もう君に教わらなくても、やり方がわかったよ。」
と、その満月のような顔をにこにこさせた。次郎はそれに対してすこし顔をあからめたきりだった。
署名血判は、こうしてつぎつぎに進んでいった。そして二十名近くもそれを終ったころには、室内の空気はもうまるで一変していた。それはすでに血判を終って不安から解放されたものたちが、自由な気持でふざけあったり、ペンナイフを握ったままぐずぐずしている、思いきりのわるい新血判者たちを、はやし立てたりしたからであった。
そうした空気の中で、次郎も署名した。血判には左の中指を切ったが、幸いに誰もあやしむものがなかった。紙をまきつけていたくすり指はふかく折りまげてかくしていたのである。
馬田もしぶしぶながら最後近くなってとうとう署名した。彼は血判を恐がるような男ではなかった。しかし、血書が明らかに次郎の書いたものであることを知っていたし、それに第一、ストライキがそれで封じられてしまう結果になることが残念でならなかったので、最初のうち、署名反対者が一人でもあらわれたら、それに自分も便乗《びんじょう》しようという肚でいたのだった。ところが、署名者の数がふえるにつれて室内の空気がゆるみ出し、まるでスポーツの応援でもやるような気分でひとりびとりの署名血判がはやし立てられるようになると、もう彼は反対
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