、この血書を生かすには、一つの条件がある。その条件というのは、絶対にストライキはやらないということだ。それは、この血書を書いた人がそれを心から願っているからだ。彼は僕にこういうことを言った。――朝倉先生は暴力の否定者である。然るにストライキは一種の暴力だ。暴力の否定者である先生を暴力をもって擁護するのは、先生に恥をかかせる以外の、何ものでもない。――また、彼はこういうことを言った。――五・一五事件の軍人たちは相手の血で自分たちの目的を貫こうとした。しかしわれわれはわれわれの血でそれを貫かなければならない。――諸君は、この血書がこういう信念のもとに書かれたということを忘れてはならないのだ。つまり諸君はこの血書をほんとうに、生かすために絶対にストライキをやらないという約束をしなければならないのだ。諸君はそれを承知してくれるのか。」
「むろん承知だ。」
色の黒い美少年の梅本がまず叫んだ。つづいて「賛成」という声が五六ヵ所から起った。
「では、賛成のものはこれに署名してくれ。僕は決して強制はしない。ほんとうにこの血書の意味を理解してくれる諸君だけの署名を求めるんだ。他のどんな手段にもたよらないで、ただ自分の血で願いとおそうという諸君だけの署名を求めるんだ。失敬だが僕がまず署名する。」
新賀はそう言って田上のまえの教卓に血書をひろげ、年月日の書いてある真下に万年筆で署名した。それから、かくしに手をつっこんで、しきりに何かさがしていたが、やがて取り出したのは小さなペンナイフだった。彼はそれをひらくと無造作に左手のくすり指をその尖端《せんたん》でつっついた。そしてちょっと顔をしかめてその指先を見つめていたが、すぐそれを自分の名前の下におしつけた。
彼の無造作な挙動にひきかえ、室内はまるで画のように静まりかえっていた。ただ、もしその場に非常に注意ぶかい観察者がいたとすれば、その人は、次郎が自分の眼にそっと両手をあてて涙をふいていたことと、馬田が変におちつかない眼をして、ぬすむようにみんなの顔を見まわしていたこととに、気がついたであろう。
新賀は血書と共に、自分の万年筆とペンナイフとを教卓の上に置いたまま、教壇をおりた。そして、
「誰か半紙をもっているものがあったら二三枚くれ。ザラ半紙でもいいんだ。」
「ザラでよけりゃあ、ここに沢山ある。」
と、田上が総務用と書いた紙挟みの
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