るような気がしたが、素直に立ち上ってお辞儀をした。お辞儀をしながら見た少佐夫人の顔には白粉がこってり塗られており、まるっこい鼻の頭には脂《あぶら》が浮いていた。
「何かたべるものを持って来いよ。」
「ええ、すぐ。」
夫人が二人にサイダーをついだあと引っこむと、少佐はいかにも得意そうに言った。
「家内は兵隊を非常に可愛がる方だが、兵隊よりは学生の方がもっと好きらしいんだ。わしが配属将校になったんで大喜びさ。」
次郎は不愉快になるばかりだった。やはり学校の方に行けばよかったと思った。で、ついでもらったサイダーにも口をつけず、むっつりしていた。
そのあと、夫人が何度も出はいりして、羊かんやら西瓜やらを運んで来たが、そのたびごとに、少佐は、これまでに訪ねて来た生徒たちの噂をもち出して、夫人との間に冗談まじりの会話をとりかわすのだった。それは、いかにも自分たちが生徒に親しまれているのを次郎に示したがっているかのようであった。その中にはこんな対話もあった。
「しかし、こないだの鋤焼《すきやき》会には弱ったね、暑くて。」
「ほんとに、八畳の間に三つも七輪を置いたんですもの。生徒さんて、夏も冬もありませんわね。この暑いのに、わざわざ鋤焼をおねだりなさるなんて。」
「わしらも、士官学校時代には、真夏でもよくやったもんさ。」
「でも、みなさんは面白い方ばかりですわね。」
「それぞれに何かかくし芸までやるのには、わしもおどろいたよ。」
「あの詩吟のうまい方、何という方でしたっけ。あの時はじめていらっした方ですけれど。……」
「馬田だろう。」
「そう、そう、馬田さん。……あの方のお父さんは県会議員ですってね。」
「そうだ。今どきの議員にしちゃあ、めずらしい議員だよ。非常な国家主義者でね。」
次郎は、馬田の最近の動静を、それでおぼろげながら窺《うかが》うことが出来たような気がした。しかし、そのために、彼の不愉快さは一層つのるばかりだった。彼はあくまでも口をきかず、出された食べものにも手をつけようとしなかった。
それで少佐も夫人も次第に気まずそうな顔になり、おしゃべりもとだえがちになった。そして、とうとう夫人は次郎を尻目にかけるようにして、部屋を出て行ってしまった。
夫人が出て行ったあと、少佐はしばらく何か考えていたが、急に厳格な態度になって言った。
「きょう君にわざわざ来てもらっ
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