だ私が悪うございましたと言えば、それでかえって誤解がとけることもある。むろん、普通なら誤解した方が誤解された方にあやまるのがあたりまえさ。しかし、それがあべこべになっても、そのために、ほんとうに誤解がとけて、双方の気持が晴れやかになるんだったら、そうして悪いわけはない。こんなことを言うと、それでは正しいことが闇に葬られてしまうではないか、と君は言うかもしれん。しかし、正しいことは天知る、地知るだ。決して葬られてしまうものではない。実は、誤解した人だって、……」
と、朝倉先生は、言いかけて急に口をつぐんだ。
次郎の頭にその時ひらめいたのは、宝鏡先生ではなくて、お祖母さんだった。彼はもう何もかもわかったような気がした。しかし、彼は、やはり首をたれたまま、朝倉先生のつぎの言葉を待った。
「いや、こんなことを今あんまり言うと、無理強いになるかもしれん。私は、決して、是が非でも宝鏡先生に君をあやまらせようとしているんではないんだ。人間はどんな場合にも、心にもないことをやってはいかん。自分で、あくまでもあやまる必要がないと信じているなら、あやまらない方が却っていいんだ。ただ十分考えてだけはみなければならんね。それで、私は、君が考える時の参考に、誤解を解くには、ただあやまる方がいい場合もあるってことを話したまでだ。要するに、みんなが晴れやかになるには、どうするのが一番いいかそれを考えてもらいたいんだ。それも、校長先生のいつも言われる大慈悲さ。おたがい意地を張る代りに、大慈悲を競う気で物事を考えれば間違いはない。……そう、そう孔子の教えの中に、いい言葉がある。仁に当っては師に譲らず、というんだ。わかるかね。」
次郎には、むろん、わからなかった。朝倉先生は、小田先生の方を見て、ちょっと微笑しながら、
「国漢の先生を前に置いて、こんなことを言うと、笑われるかもしれんが、仁というのは、つまり大慈悲だ。何事にも先生にゆずるのが弟子の道だが、仁を行うことにかけては遠慮はいらぬ。宝鏡先生とでも誰とでも競争せよ、という意味なんだ。どうだい、大ていわかったろう。」
朝倉先生は、そう言って、だしぬけに椅子から立上り、
「じゃあ、もういいから、帰ってゆっくり考えてみるんだ。」
と、さっさと生徒監室の方に歩き出した。次郎は、あわててそのうしろ姿に敬礼したが、まだじっと自分の様子を見つめている小田先生の眼に出会すと、彼はわざとのようにたずねた。
「もういいんですか。」
「朝倉先生がいいと言われたら、いいだろう。」
小田先生の答は、どぎまぎしているようでもあり、くさっているようでもあった。次郎はそれをきくとすぐ、きちんと敬礼をして室を出たが、廊下を歩いて行く彼の胸の中には、勝ち誇った気持と、重い荷を負わされた気持とが交錯していた。
彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
と、いかにも思いあぐんだように言った。
午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。
六 迷宮
次郎は、歩きながら、二人の先生との対談の様子を、あらためてくわしく新賀に話した。話しているうちに、小田先生のあいまいな態度に対する不満の言葉も、自然、幾度となく彼の唇を洩《も》れた。しかし、今は、そうした不満をならべるのが彼の目的ではなかった。彼には、もう、どの先生に対しても、朝倉先生の心に背いてまで反抗的な態度に出る気持は残っていなかった。宝鏡先生に対してこれからどうすればいいか、ということについても、いつの間にか決心がつきかけていたのである。ただ、心の底には、まだ何といっても、いくらかの無念さが残っていた。それに彼くらいの年頃では恐らく誰しもそうだと思うが、そした殊勝な決意をすることが友達に対して何となく気恥かしく感じられるのだった。で、彼は、表面、どうしていいかわからない、といった顔をして、それとなく、朝倉先生の言葉や、その言葉から受けた感銘やを、強く新賀の心に印象づけ、新賀の方から、励ましてもらいたい気持でいたのである。
しかし、彼のそうした複雑な気持は、新賀には、まるで通じなかった。新賀は、ただ一途に、数学の時間の出来事について、次郎に同情していた。それに、彼はまだ一度も朝倉先生に接したことがなかったので、次郎の口をとおして間接に聞かされた先生の言葉には、さほど感銘を覚えなかった。それは、むしろ、変にややこしい理窟だとしか彼には思えなかったのである。彼は、だから、次郎が率直にもらした不満の言葉には一も二もなく合鎚《あいづち》をうったが、朝倉先生の言葉に対しては、共鳴どころか、かえって、先生が小田先生とぐるになって、いい加減に次郎をごまかそうとしているのではないか、とさえ疑い、次郎が苦心して説明するたびに、
「ほっとけよ、誰が何と言ったって、平気さ。」
と、次郎の期待とは、まるであべこべの方向に彼を励ますだけだったのである。
次郎は、新賀にそんなふうに言われると、ますます自分の本心をはっきり言うことが出来なかった。そして家に帰りついて、新賀と二人、机のはたに坐りこんでからの彼は、とかく沈默がちになり、新賀に来てもらったことをいくらか後悔さえしていた。
新賀は、そうなると、いよいよはげしい言葉をつかって、彼を元気づけることにつとめた。そして、「なあに、処罰ぐらい、屁でもないよ。」とか、「頑張るさ。君さえ頑張りゃ、みんなできっと応援するよ。」とか、成行次第では自分が主になって、一騒動起しかねないようなことまで言うのだった。
そんなふうで、おおかた小一時間も話しているうちに、恭一が帰って来た。大沢をつれて来たらしく、階段で二人の話声がきこえた。次郎はそれを聞くと、急に救われたような気になった。
大沢は、部屋にはいると、
「やあ。」
と二人に声をかけて、すぐあぐらになりながら、新賀にたずねた。
「次郎君と同じ組かい。名は何というんだい。」
新賀の方では、大沢は上級生でもあり、「親爺《おやじ》」の綽名《あだな》で有名でもあったので、もうとうから顔を見知っていた。しかし、言葉を交わすのははじめてだった。彼は、自分の名を答え終ると、いかにも「親爺」らしい大沢の顔を無遠慮に眺めていたが、急に次郎の方をふり向いて、
「どうだい、今の話、兄さんや大沢さんにも話してみないか。」
次郎は、むろん、新賀に言われなくとも話すつもりだった。で、さっそく、今日の一件が四人の話題に上ることになった。
次郎と宝鏡先生との教室での活劇については、新賀が殆んど一人で話してしまった。しかし、小田先生に呼び出されてからあとの事は、次郎が自分で話すより仕方がなかった。新賀の憤慨した調子にひきかえて、次郎はいやに用心深く話した。そして、今度は小田先生に対する不満の言葉など出来るだけ洩《も》らさないようにつとめた。新賀はそれが物足りなかったらしく、何度も口をはさんで、小田先生のあいまいな態度を攻撃した。
恭一は、話の最初から、ひどく心配そうに聞いていた。しかし、大沢の方は、次郎が机もろとも宝鏡先生にかかえ出されるあたりになると、手をたたいて喜んだ。そして、
「机にしがみついてはなれなかったのは大出来だよ。さすが次郎君だ。かかえ出されても、勝負にはたしかに勝っているね。」
と、わざとおだてるようなことを言ったりした。そして、次郎が最後に、
「僕、どうしたらいいかわからないので、新賀君の考えをきいてたところです。」
といくらかきまり悪そうに首をたれると、大沢は、
「ふうむ、なるほど。仁に当っては師に譲らずか。朝倉先生そんなことを言ったんかな。ふうむ。――」
と、何度も首をふり、それから、恭一に向かって、
「どうだい、本田、君、兄さんとして次郎君に何とか言ってやれよ。」
恭一は、しかし、次郎の顔を見つめているだけだった。すると、新賀が横から、突っかかるように言った。
「大沢さんは、朝倉先生の言ったこと、いいと思うんですか。」
大沢は微笑した。そして、ちょっと考えていたが、すぐあべこべに問いかえした。
「君は、いけないと思うかい。」
「いけないと思うんです。」
「どうして?」
「悪くない者にあやまれなんて、そんなこと無茶です。」
「しかし、是非あやまれとは言わなかったんだろう。ねえ、次郎君。」
「ええ。考えろって言われたんです。」
「じゃあ、あやまらなくてもいいんですね。」
と、新賀の調子は、少し皮肉だった。
「さあ、それは次郎君が自分で考えるだろう。」
「僕は、朝倉先生が考えろなんて言ったのが、ペテンだと思うんです。」
「ペテンだか、ペテンでないかは、朝倉先生自身のほかには誰にもわからんよ。しかし、次郎君はペテンでないと思ってるらしい。ねえ、そうだろう。次郎君。」
「ええ。――」
次郎は、新賀に多少気を兼ねながら答えた。すると新賀は憤然として言った。
「卑怯だよ、君は。生徒監がそんなに怖いんか。正しいことが突きとおせないような人は、僕、大嫌いだ。」
彼は、もう立ち上って帰ろうとしていた。大沢も、それを見ると、さすがにあわてたように彼のまえに立ちふさがった。そして、
「おい、おい、そう簡単に友達を見捨てるのはいけないことだぜ。まあ坐れ。」
と、彼の肩をおさえてむりに坐らせ、
「君はずいぶん短気だな。しかし、そんな短気は必ずしも悪くない。実際、次郎君はこのごろ大人になり過ぎているんだ。少し怒りつけてやる方がいいよ。」
次郎は、新賀の態度でかなり気持が混乱していたところへ、大沢にそう言われたので、いよいよまごついた。しかし、そのまごつきも、ほんのわずかの間だった。彼は、幼いころから、相手が自分に同情する立場に立っていることが明らかであるかぎり、その相手に対しては、人一倍弱かったが、いったん相手が多少でも反対の側に立ったと見ると、もう少しも遠慮はしなかった。愛の渇《かわ》きによって自然に築き上げられて来た彼のこうした意地強さは、まだ決してなくなってはいなかったのである。彼は、新賀と大沢とを等分に見くらべながら、ずけずけと言った。
「僕は、僕の思うとおりにするんだから、もう誰にも構ってもらわなくてもいいんです。」
それを聞いて、誰よりもにがい顔をしたのは恭一だった。彼は、これまでほとんど一言も出さないでいたが、やにわに神経質な声をふりしぼって言った。
「次郎! 何を言ってるんだ。失敬じゃないか。大沢君だって、新賀君だって、お前のことを心配しているから、いろんなことを言うんだよ。」
「じゃあ、兄さんも、大沢さんや新賀君の言うことに賛成ですか。」
次郎は、今度は恭一に突っかかって行った。恭一は、ちらと新賀の方に眼をやって、答えに躊躇《ちゅうちょ》したが、
「僕が賛成だか、賛成でないか、そりゃ別さ。僕はただ、お前があんまり失敬だから、言ったんだよ。」
「だけど……」
と、次郎はせきこんで何か言おうとした。すると、大沢が急に笑い出した。そして、
「今日は、兄弟喧嘩はその程度でよしとけよ。ついでに、次郎君の問題も、ここいらで打切りにしたら、どうだい。」
みんなは、ちょっと拍子ぬけがしたような顔をして、大沢を見た。大沢は
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