いてそれを弁護しようとしているとしか思えなかったのである。
「うむ――」
 と、先生は行きづまって、変な笑いをもらした。すると、次郎は、その笑いに食いつくように言った。
「先生、僕たちにそれをはっきり教えて下さい。僕たちは、先生が間違いをなさるのを面白がるなんて、そんなことちっともないんです。僕たちはただ困るだけです。だから、それを見つけたらすぐそれを言うんです。それが悪いんですか。」
「それは悪くないさ。しかし、わざと教室をさわがすために、それを言うのはいかんよ。」
「僕には、さわがすつもりなんかなかったんです。僕はホウキョウ先生が気の毒だったんです。」
「しかし、トミテル先生は――」
 と「トミテル」に力をいれて、
「君に騒がすつもりがあった、と信じていられるんだ。先生は君にいつもそんな癖があると言われる。」
 次郎は、急に默りこんだ。そして、それっきり、先生の顔をまともに見つめたまま、何を言われても返事をしなくなった。先生の方では、
「宝鏡先生は、君に教室をさわがすつもりがあったと言われるし、君はそうでないと言うし、私もどちらを信じていいか、実はわからないでいるんだ。」
 とか、
「君に実際やましいところがなければ、自分で宝鏡先生に礼をつくしてお話したら、先生もきっとわかって下さるだろう。」
 とか、いろいろ次郎の気持に妥協《だきょう》するようなことを言ってみたが、次郎の沈默は頑としてやぶれなかった。
 小田先生は、すっかり手こずってしまった。もともとこの先生は、次郎という人間をよく知っていたわけでもなく、学級主任として、この問題に自分で一応の解決をつける責任があり、それには、次郎はまだ一年生のことだし、よく言って聞かせて、ともかくも謝罪させ、その上で生徒監である朝倉先生に訓戒でもしてもらえば、それ以上のことはないぐらいにしか考えていなかったのである。しかし、こうなると、もう解決どころのさわぎではなく、自分の立場までがどうやらあやしくなって来た。浅い良心で、お座なりの形式をふんで行くことを健全な教育法だと心得がちな、温良型の先生がよく味わう悲哀なのである。
「本田!」
 と、先生の温良な声は、もうすっかり悲痛な調子に変っていた。
「先生が、これほど事をわけて話しているのに、なぜ返事をしないんだ。」
 次郎は、しかし、その程度の悲痛さに動かされるほど、単純な生徒ではなかった。彼は依然として先生を見つめたまま沈默を守っている。
「じゃあ、私はもう知らんぞ。生徒監室に引渡すが、それでいいのか。」
 先生は、早くもその取っときの奥の手を出すことを余儀なくされた。次郎は、それで、やっと口をきくにはきいたが、その答えは、先生の予期に反して、あまりにも簡単明瞭だった。
「いいです。」
 これは、しかし、彼のやけくそから出た青葉でもなく、さればといって、朝倉先生に一刻も早く会いたいための言葉でもなかった。彼は、実際、生徒監室がどんなところか、そしてそこにはどんな先生がいるのか、上級生たちが知っているほど、くわしく知っていたわけではなかったのである。ただ、彼は、彼にとって全く無意味だとしか思われない言葉を、いつまでも聴《き》いているのがばかばかしかった。で、与えられた機会を無造作につかんで、対談をぶち切ってしまったまでのことで、それが相手にとってどんな迷惑になるかは、むろん、彼の知るところではなかったのである。
「生徒監に引き渡した以上、学級主任としては、あとがどうなっても知らんぞ。それでいいのかね。」
 小田先生は、未練らしく、もう一度駄目を押した。
「いいです。」
 次郎の答えは、あくまで簡単で、はっきりしていた。こうなっては、小田先生もいよいよ立ち上らざるを得なかったらしく、
「しばらく、ここで待っているんだ。」
 と、捨ぜりふのように言って、隣室に消えた。
 次郎は、一人になると、さすがに変な気重さを感じた。彼は、それをまぎらすように、室内を見まわしたが、正面に額が一つかかっているきりで、ほかには何の飾りもなかった。額には「思無邪」とあった。次郎は、しかし、それをどう読んでいいのかわからなかった。無邪気という言葉と何か関係があるんだろう、と思ったきり、それ以上考えてみようともしなかった。
 隣室からは、おりおり笑い声がきこえた。次郎は、最初のうち、その笑い声をきくと腹が立った。しかし、何度もきいているうちに、その声に聴き覚えがあるような気がして、じっと耳をすました。
(そうだ、朝倉先生の声だ。)
 彼は、そう思うと、朝倉先生が生徒監の一人であり、自分に話すことがある、と言われたのもそのためだったということが、はっきり意識されて来たのである。
 彼は、もう、隣室とのあいだの戸がひらくのが、待遠しくてならなくなった。
 しかし、戸は容易にひらかなかった。やっとそれが開いたのは、午後の時間の用意の鐘が間もなく鳴ろうという頃だった。
 はいって来たのは、小田先生と朝倉先生の二人だった。次郎は、うろたえたように立上って、朝倉先生に敬礼した。すると、朝倉先生はにこにこしながら、
「本田は、よくいろんな変った事件を起すんだね。」
 と、無造作に椅子をひいて、腰をおろした。それから、
「まあ、かけたまえ。」
 と、次郎にも腰をおろさせ、
「しかし、今度は、室崎の時とはちがって、君の方が机もろともかかえ出されたそうじゃないか。さすがに、君も面喰らったろう。」
 朝倉先生は、そう言って大きく笑った。それは、まるで取調べをするとか、訓戒をするとかいった調子ではなかった。が、先生はそれからしばらく窓の方を見たあと、急にまじめな顔をして、
「小田先生は、学級主任として君のことを非常に心配していられるんだ。」
 次郎は、ちらと小田先生を見たが、すぐ冷やかに眼をそらした。
「実はね――」
 と、朝倉先生は、しばらく間をおいて、
「小田先生は、君に悪気があったなんて、ちっとも思ってはいられないんだ。私も、むろん、そうは思っていない。校長先生にはまだお話してないんだが、お話しても、たぶん、そうは思われないだろう。だから、学校としては、君の正しさを疑ってはいないんだ。君はそれを信じてもよい。」
 次郎は、心が躍るようだった。しかし、ついさっきまで自分を疑っていた小田先生が、朝倉先生のそんな言葉を默って聞いているのが不思議でならなかった。
「しかし、――」
 と、朝倉先生は、次郎の顔を注意ぶかく見まもりながら、
「人間の世の中には、誤解ということがある。これは、時と場合によって免れがたいことだ。君だって、これまでに、人を誤解したことが何度もあるだろう。」
 次郎の頭には、幼いころからの自分の生活が、一瞬、走馬燈のようにまわった。
「どうだね。」
 朝倉先生はやさしく返事をうながした。
「あります。」
 次郎は素直《すなお》に答えて、少しうなだれた。
「誤解された人は気の毒だ。だから、そういう人があったら、みんなでその人のために弁護をしてやらなければならん。これはあたりまえのことだ。」
 次郎は、小田先生の顔をそっとのぞいて見たいような気がしたが、視線はわずかに青い毛氈の上をはっただけだった。
「しかし、気の毒なのは、誤解された人だけではない。誤解する人も、やっぱり気の毒だよ。どうかすると、誤解された人以上に、その人をいたわってやらなければならないこともある。君は、自分で、そんなふうに考えたことはないかね。」
 次郎には、急には返事が出来なかった。朝倉先生は、毛氈の上に組んでいた手を、そのまま顎の下にもっていって、数でも読むように指を動かしていたが、
「君が、自分で人を誤解した時のことを、よく考えてみたら、わかるだろう。」
 次郎は、もう一度、自分の過去につきもどされた。いろんな人の顔が彼の前にちらついた。その中には、亡くなった母の観音様に似た顔もあった。彼の頭からは、その時、宝鏡先生のことなどすっかり拭い去られてしまっていた。
「わかるはずだと思うがね。」
 朝倉先生は、組んだ手をもう一度毛氈の上にもどして、少し顔をつき出した。
「わかります。」
 次郎の顔は、もうその時には、毛氈にくっつくように垂れていた。
「うむ――」
 と、朝倉先生はうなずいて、また手を顎の下にやった。そして、しばらく考えていたが、
「そこで、宝鏡先生の君に対する誤解だが、むろん、小田先生をはじめ、私も、出来るだけ君に悪気がなかったことをお伝えはする。しかし、一番の早道は、君が自分で直接君の気持をお話しすることだと思うが、どうだね。」
 次郎は、しかしぴったりしない気持だった。宝鏡先生の方から呼び出しがあればとにかく、自分から進んで弁解に行く必要はない、そんなことをするのは屈辱だ、という気がしてならなかったのである。彼は答えなかった。
「いやかね。」
 と、朝倉先生は、組んだ手を解《と》いて、代る代るもみながら、
「いやなら、仕方がない。いやなものを無理強いされても、かえって誤解を深めるはかりだろうからね。……どうです、小田先生、本田の気持がもう少し落ちついてからにしちゃあ。」
「しかし……いいでしょうか。」
 小田先生は、何か言いにくそうに、言葉の途中をにごした。
「仕方がありませんよ。無理をして、取返しのつかん結果になるより、当分このままの方がいいでしょう。」
「はあ……」
 小田先生の返事はやはり煮えきらなかった。次郎には、しかし、その煮えきらない理由が小田先生の宝鏡先生に対する立場にあるということが、もうはっきりわかっていた。
「じゃあ、もう本田は引きとらしていいでしょう。」
 朝倉先生はおさえつけるような調子でそう言って、半ば腰をうかした。
「ええ。」
 と、小田先生も、あきらめたように、
「じゃあ、本田、用があったらまた呼ぶから、今日はこれで引きとっていいよ。」
 次郎は、朝倉先生に対して済まないような、それでいて何か物足りないような気がしながら、立ち上った。朝倉先生は、腰をうかしたまま、いつもの澄んだ眼でじっと彼の様子を見つめていたが、また腰をおちつけて、
「うむ、そう。念のために言っておくがね。」
 と、手で合図をして、もう一度次郎にも腰をおろさせ、
「君は、今では、宝鏡先生の誤解を解く必要はない、と思っているかもしれん。しかしそれは何といっても君の誤りだ。誤解は解けるものなら、解いた方がいいよ。人間と人間との間に誤解があっていいはずはないからね。それだけは、私からはっきり言っておく。しかし、道理はそうだとしても、君の気持がそうならなければ、どうにも仕方がない。それはさっきも言ったとおり、いやいやながら誤解を解こうとすれば、却って悪い結果になるからだ。そこで、私は、小田先生といっしょに、君の気持がそうなるのを、陰ながら祈ろうと思っている。それだけは覚えておいてくれ。もっとも、私たちが祈っているからって、それを気にして、あせってはいかん。鶏が卵をあたためるように、ゆっくり落ちついて考えるんだ。いいかね。」
 次郎は室崎の事件の折の朝倉先生をやっと取りもどしたような気がした。そして、すぐにも宝鏡先生に会わして貰おうかと思った。しかし、先生はつづけて言った。
「それと、もう一つ言っておくことがある。それは、誤解はどうしたら解けるか、ということだ。かりに、君が宝鏡先生の誤解を進んで解きたいという気持になったとして、君はどうしようと思うんだい。」
「………?」
 次郎には、質問の急所がつかめなかった。
「誤解にもいろいろあってね。……」
 と、朝倉先生は、少し声を低め、
「相手を説き伏せて解ける誤解もあるし、証拠や証人を出して解ける誤解もある。しかし、それだけではどうにもならない誤解があるんだ。いや、説き伏せたり、証拠や証人をつきつけたりすると、結果がかえって悪い場合さえある。」
 次郎には、全くわけがわからなかった。
「変なことを言う先生だと君は思うだろうね。しかし、世の中は、君らが考えているように、一本筋のものではないんだ。ことがらによっては、一言の弁解もしないで、た
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