、かりに帳消し出来たとしても、帳消しにすることによって次郎が現在以上の人間になれると請合《うけあ》えない以上、今さらとやかく詮議《せんぎ》立てしてみても、はじまらないことなのである。
 次郎について、われわれの知っておかなければならないもっと大事なことは、神のみが知る彼の天性が、彼のきびしい運命と取っ組みあって行くうちに、彼が一個の生命としての健全さを失いはしなかったか、ということである。彼の天性が、天性のまま伸びたかどうかは、「永遠」に向かって流れて行く生命の立場からは、元来大した問題ではない。生命の流れは「運命」の高低によって、あるいは泡立ちもしようし、あるいは迂回《うかい》もしよう。また、時としては、真暗な洞穴《ほらあな》をくぐる水ともなろう。かりに、最初東に向かって流れ出したのが西に向きをかえたとしても、途中で滞《とどこう》りも涸《か》れもせず、そして、運命の岩盤の底からでさえも新しい水を誘い出して流れに力を加え、たゆむことなく「永遠」の海に向かって流れることをやめないならば、それは一個の生命として健全さを失ったものとは言えないであろう。大事なのは、次郎が果してそうした健全な生
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