は、それから、海軍の名高い人たちの逸話などを例にひいて、新賀を励ましたり、戒めたりした。新賀は眼をかがやかしてそれに聴き入った。次郎は、かんじんの自分の問題に、いつまでたってもふれて来そうにないので、少しいらいらして来たが、大沢も恭一もいっこう話題を転じてくれそうにない。彼は催促するように何度も恭一の顔をのぞいた。
 恭一も、やっとそれに気がついたらしく、先生の話が一段落ついた機会をとらえて言い出した。
「今日は、弟が数学の時間に、変な事件を起しましたそうで――」
「うむ。」
 と、先生は軽くうなずいた。それから、次郎の方を見て微笑しながら、
「兄さんにも話したのか。そりゃあよかった。何もいそいで決めるには及ばんから、いろんな人の考えをきいてみるんだね。さっそく大沢や新賀にも話してみたら、どうだ。」
「実は、もう、この四人で話しあったんです。」
 と、大沢が答えた。
「はう。それで、どうだった。」
「新賀君は、生徒監がこわくて正しいことを曲げるような人間とは絶交すると言うんです。」
「なるほど。それで君は?」
「僕は、次郎君にひねこびた聖人君子の真似をさせたくないという考えです。第一、まだ、そんなことの出来るほど偉い人間でもなさそうです。」
「はっはっ。すいぶん手きびしいね。」
「ところが、次郎君自身は、僕らにそんなことを言われたのが非常に不服らしいんです。」
「すると、宝鏡先生にあやまろうというのか。」
「ええ、僕らが反対すれば、絶交でもしかねない見幕でした。」
「絶交が大ばやりなんだな。……で本田は、兄さんとしてどういう考えだ。」
「僕は――」
 と、恭一は、少し顔を赧《あか》らめて、
「次郎が進んであやまると言うなら、あやまらした方がいいと思っていました。しかし、大沢君の考えをきいているうちに、それも不安なような気がして来たんです。」
「うむ。――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えていたが、
「次郎君のことは、学校の問題としては、校長にもお話して、もう済んだ事になっているから別に心配せんでもいい。しかし、よく考えてみると、こういうことは学校だけに起る問題ではないんだ。形はちがっても、世間にはそうしたことがざらにある。君らも、将来、次郎君のような羽目に陥《おちい》ることがないとは限らん。これを機会にみんなで真面目に考えてみることだね。」
 その時、奥さんが、
「どうも、おそくなりまして。」
 と、煎餅《せんべい》を袋ごと盆にのせて、茶道具といっしょに運んで来た。そして、次郎のすぐそばに尻を落ちつけ、みんなに茶を注ぎはじめた。そのきりっとした横顔が、次郎には、どことなく亡くなった母に似ているように思えた。
 先生は、奥さんが差出した湯呑を受取りながら、
「考えるったって、一つ一つの事がらをばらばらにつかまえて来て、あれは正しい、これは間違っている、と考えるだけでは、しようがない。それじゃあ、次郎君のような場合の解決にはならないんだ。君らに考えてもらいたいと思うのは、どうせ人間の世の中にはいろいろの間違いがあるんだから、その間違いの多い世の中をどうして秩序立て、調和して行くかという問題だよ。君らは恐らく、その一番の早道は遠慮なく間違いを正すことだと言うだろう。なるほどそれが完全に出来れば、たしかにそれが早道だ。しかし間違いはあとからあとからと新しく生じて来る。いつまでたっても完全に間違いのない世の中になる見込みはないんだ。汚ない譬《たと》えだが、われわれの体にたえず糞尿がたまるようなものさ。さあ、そうなると、間違いは間違いなりで、全体の調和を保ち、秩序を立てていくという工夫をしなければならん。そういう努力をしないで、一つ一つの事がらの正邪善悪にばかりこだわっていると、かんじんの全体が破壊されて、元も子もなくなってしまうからね。かりに君らが、君らの体の中の糞尿のことばかり気にかけて、朝から晩まで便所通いをしているとしたら、いったいどうだ。それよりは、お茶が出たらお茶を飲み、煎餅が出たら煎餅をかじって、糞尿のことなんか忘れている方が遙かに健全だろう。」
 みんなが、一度に吹き出した。奥さんも声を立てて笑った。そして煎餅の袋をみんなの方へ押しやりながら、
「さあ、さあ、みなさん、先生にみなさんの健全なところを見せてあげて下さい。」
 大沢から、恭一、新賀、次郎と、順々に袋がまわった。しばらくは煎餅を噛む音でさわがしかった。大沢は、茶を一ぱい飲み干すと、
「しかし先生、糞尿の溜めっ放しでも困るでしょう。」
「そりゃあ、むろんさ。臓腑《ぞうふ》の中が糞尿だらけになっては、たまらんよ。」
「不正を不正と知りながら、それと妥協するのは、糞尿を溜めっ放しにするのと同じではありませんか。僕は、新賀君の言う所にも道理があると思うんです。」
 新賀
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