にこにこしながら、
「次郎君が、自分で思う通りにするから誰も構ってくれなくてもいい、と言ったのは、失敬でも何でもないんだ。実は、僕、それでいいと思うんだよ。いや、それがほんとうなんだ。朝倉先生だって、多分そのつもりなんだろう。だから、僕らは、次郎君がこれからどうするか、見ていりゃあいいんだ。」
次郎には、それが非常に皮肉にきこえた。彼は「くそっ」という顔をして、大沢をにらんだ。大沢は、しかし、相変らずにこにこしながら、
「だが、次郎君、朝倉先生が、心にもないことはやるなって言われたことを忘れんようにせいよ。先生は、君に是が非でも聖人君子の真似ごとをやらせようとしていられるんではないんだ。その証拠には、ゆっくり考えろと言われたんだろう。むろん、先生に最初言われたとおりのことが、君に出来ればすばらしいさ。しかし、どうだい、君は、山伏先生のまえに、自分で悪いとも考えていないことを、ほんとうに心からあやまることが出来るんかい。あやまるからには、山伏先生が今度どんな無茶を言っても、腹を立ててはならないんだよ。それが果して君に出来るんかい。」
次郎にはさすがに返事が出来なかった。恭一は不安な顔をして、
「しかし、次郎が自分であやまるつもりなら、あやまらしてもいいんじゃないかね。」
「むろん、僕はそれをとめはせん。次郎君に自信があれば、やるがいいさ。やった結果がどうなるか、それを見るのも面白いかも知れんね。」
次郎は追いつめられるような気がして、すっかり落ちつきを失った。恭一も、そう言われると、べつの意味で不安を感じ出した。新賀はそれまで默りこんで仏頂《ぶっちょう》づらをしていたが、急に、
「僕、もう失敬します。」
と立ち上りかけた。
「まてよ。どうも君は気が短かくていかん。」
と、大沢は彼を手で制して、
「どうだい、今夜は、僕、朝倉先生を訪ねてみたいと思うが、君らもよかったらいっしょに行かないか。」
大沢のこのだしぬけな提議は、三人にとって、全く意想外だった。同時に、それは、今までの部屋の空気をいっぺんに明るくした。
「うむ、それはいい。そうすれば安心だ。次郎、行ってみようや。……新賀君もどうだい。」
と、恭一が、いつもにない、はしゃいだ声で言った。
新賀は、朝倉先生にはまだ近づきがなかったせいか、ちょっと躊躇するふうだったが、好奇心とも、まじめな期待ともつかぬ、一種の興味に刺戟されて、すぐ賛成した。誰よりも喜んだのは次郎だった。彼は、迷宮からでも救い出されたような、ほっとした気持になって、もう、賛成するもしないもなかったのである。
先生を訪ねる時間の打合わせを終ると、大沢は新賀の肩をたたいて言った。
「さあ、もうこれで、失敬してもいいんだ。じゃあ、さよなら。」
新賀は、頭をかきながら、大沢のあとについて、階段をおりた。
七 心境の問題
朝倉先生の住居は、家賃十何円かの、だだっ広い、古い士族屋敷で、柱も天井も黒ずんだ十二畳の座敷が、書斎兼客間になっていた。
ちょうど先生が入浴中だったので、四人は十分あまりも、その部屋に待たされた。そのあいだ、大沢と恭一とは、勝手に座蒲団をならべたり、本棚から本を引き出して見たりしていたが、先生の自宅を訪ねた経験のない次郎と新賀とは、いかにも窮屈そうにかしこまっていた。
「やあ、待たせて済まんかったなあ。」
と、先生は湯あがりの顔をほてらせながら、襖をあけて這入って来た。そして次郎と新賀とが小さくなって坐っているのを見ると、
「おや、今日はめずらしい顔だね。私は、また例の連中かと思っていたが。」
「はあ、実は、これから下級生も少しずつ加えていただきたいと思って、つれて来たんです。」
大沢が、持っていた本を棚にかえし、自分の席にもどりながら答えた。
次郎と新賀とは、さっきからお辞儀をする機会を待って、もじもじしていたが、先生は、
「うむ、そうか。」
と、まだ立ったままで、羽織の紐をかけていた。
「こちらが新賀君、むこうは僕の弟です。」
恭一が先生の顔を下からのぞきながら紹介した。
「ほう。」
と、先生は、まだ二人の方を見ない。そして、やはり羽織の紐をいじくっていたが、やっとそれがかかったらしく、
「やあ、いらっしゃい。」
と、自分の座蒲団に尻をおろし、はじめてみんなとお辞儀をかわした。
次郎は、今日のことで、さっそく先生に何とか言葉をかけられるだろうと予期して、固くなって待っていた。しかし、先生は、ちょっと彼の顔を見て、
「おお、そうそう、君は本田の弟だったな。」
と、言ったきり、すぐ新賀の方に話しかけた。新賀は例によって問われることをはきはきと答えた。
「ほう海軍か。そりゃいい。一年の時からちゃんと志望をきめて、まっしぐらに進むのはいいことだ。」
先生
前へ
次へ
全61ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング