子でそう言って、半ば腰をうかした。
「ええ。」
 と、小田先生も、あきらめたように、
「じゃあ、本田、用があったらまた呼ぶから、今日はこれで引きとっていいよ。」
 次郎は、朝倉先生に対して済まないような、それでいて何か物足りないような気がしながら、立ち上った。朝倉先生は、腰をうかしたまま、いつもの澄んだ眼でじっと彼の様子を見つめていたが、また腰をおちつけて、
「うむ、そう。念のために言っておくがね。」
 と、手で合図をして、もう一度次郎にも腰をおろさせ、
「君は、今では、宝鏡先生の誤解を解く必要はない、と思っているかもしれん。しかしそれは何といっても君の誤りだ。誤解は解けるものなら、解いた方がいいよ。人間と人間との間に誤解があっていいはずはないからね。それだけは、私からはっきり言っておく。しかし、道理はそうだとしても、君の気持がそうならなければ、どうにも仕方がない。それはさっきも言ったとおり、いやいやながら誤解を解こうとすれば、却って悪い結果になるからだ。そこで、私は、小田先生といっしょに、君の気持がそうなるのを、陰ながら祈ろうと思っている。それだけは覚えておいてくれ。もっとも、私たちが祈っているからって、それを気にして、あせってはいかん。鶏が卵をあたためるように、ゆっくり落ちついて考えるんだ。いいかね。」
 次郎は室崎の事件の折の朝倉先生をやっと取りもどしたような気がした。そして、すぐにも宝鏡先生に会わして貰おうかと思った。しかし、先生はつづけて言った。
「それと、もう一つ言っておくことがある。それは、誤解はどうしたら解けるか、ということだ。かりに、君が宝鏡先生の誤解を進んで解きたいという気持になったとして、君はどうしようと思うんだい。」
「………?」
 次郎には、質問の急所がつかめなかった。
「誤解にもいろいろあってね。……」
 と、朝倉先生は、少し声を低め、
「相手を説き伏せて解ける誤解もあるし、証拠や証人を出して解ける誤解もある。しかし、それだけではどうにもならない誤解があるんだ。いや、説き伏せたり、証拠や証人をつきつけたりすると、結果がかえって悪い場合さえある。」
 次郎には、全くわけがわからなかった。
「変なことを言う先生だと君は思うだろうね。しかし、世の中は、君らが考えているように、一本筋のものではないんだ。ことがらによっては、一言の弁解もしないで、ただ私が悪うございましたと言えば、それでかえって誤解がとけることもある。むろん、普通なら誤解した方が誤解された方にあやまるのがあたりまえさ。しかし、それがあべこべになっても、そのために、ほんとうに誤解がとけて、双方の気持が晴れやかになるんだったら、そうして悪いわけはない。こんなことを言うと、それでは正しいことが闇に葬られてしまうではないか、と君は言うかもしれん。しかし、正しいことは天知る、地知るだ。決して葬られてしまうものではない。実は、誤解した人だって、……」
 と、朝倉先生は、言いかけて急に口をつぐんだ。
 次郎の頭にその時ひらめいたのは、宝鏡先生ではなくて、お祖母さんだった。彼はもう何もかもわかったような気がした。しかし、彼は、やはり首をたれたまま、朝倉先生のつぎの言葉を待った。
「いや、こんなことを今あんまり言うと、無理強いになるかもしれん。私は、決して、是が非でも宝鏡先生に君をあやまらせようとしているんではないんだ。人間はどんな場合にも、心にもないことをやってはいかん。自分で、あくまでもあやまる必要がないと信じているなら、あやまらない方が却っていいんだ。ただ十分考えてだけはみなければならんね。それで、私は、君が考える時の参考に、誤解を解くには、ただあやまる方がいい場合もあるってことを話したまでだ。要するに、みんなが晴れやかになるには、どうするのが一番いいかそれを考えてもらいたいんだ。それも、校長先生のいつも言われる大慈悲さ。おたがい意地を張る代りに、大慈悲を競う気で物事を考えれば間違いはない。……そう、そう孔子の教えの中に、いい言葉がある。仁に当っては師に譲らず、というんだ。わかるかね。」
 次郎には、むろん、わからなかった。朝倉先生は、小田先生の方を見て、ちょっと微笑しながら、
「国漢の先生を前に置いて、こんなことを言うと、笑われるかもしれんが、仁というのは、つまり大慈悲だ。何事にも先生にゆずるのが弟子の道だが、仁を行うことにかけては遠慮はいらぬ。宝鏡先生とでも誰とでも競争せよ、という意味なんだ。どうだい、大ていわかったろう。」
 朝倉先生は、そう言って、だしぬけに椅子から立上り、
「じゃあ、もういいから、帰ってゆっくり考えてみるんだ。」
 と、さっさと生徒監室の方に歩き出した。次郎は、あわててそのうしろ姿に敬礼したが、まだじっと自分の様子を見つめている小
前へ 次へ
全61ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング