たきり、おくれた理由を問いただしてみようともしなかった。次郎は、もう先生は何もかも知ってるんだ、と思った。
時間は、あと二十分ばかりだったが、授業には、むろんよく身が入らなかった。そして、その時間がすむとちょうど午前の授業が終りになるので、次郎は、早引を願って帰ろうかとも考えていた。ところが、いよいよ鐘が鳴ると、小田先生は次郎の机のそばにやって来て言った。
「飯をすましたら、すぐ私の所に来るんだ。それから、朝倉先生も、君に話があると言っていられる。」
次郎は、朝倉先生ときいて、急に胸がどきついた。それはこわいともうれしいともつかぬ、そして妙にひきしまるような愛情の鼓動だった。
五 誤解する人
小田先生の姿が教室から消えると、生徒たちは、くちぐちに、次郎に同情の言葉をなげかけた。とりわけ新賀は、次郎の机のそばにやって来て、真剣に彼を励ました。
「ホウキョウ・ホウシュンが、きっと自分勝手な理窟をつけて、朝倉先生に言いつけたんだよ。かまうもんか、君にちっとも悪いことなんかないんだから。……朝倉先生にだって誰にだって、びくびくするな。先生の方で君が悪いと言ったら、僕きっと君に応援するよ。」
次郎は默ってうなずいた。そしてすぐ弁当をひらいたが、彼の気持はかなり複雑だった。
朝倉先生には、室崎との事件以来、めったに会ったことがない。言葉を交す機会など、まるでなかった。それでも、彼の心に生きている先生は、いつも新鮮だった。たまたま廊下などですれちがったりすると、彼は処女のように顔をあからめて敬礼した。先生は、それに対して、ただうなずくだけだったが、その微笑をふくんで澄みきっている眼が、何かとくべつの意味をもって彼を見ているように彼には感じられるのだった。彼が学校にいるかぎり、彼の意識の底には、いつもその眼があり、古ぼけた校舎もそれで光っていたし、彼の教室に出て来る凡庸《ぼんよう》な先生たちにも、それでいくらか我慢が出来ていたのである。
それにもかかわらず、きょうは不思議に、今までその眼を思い出さなかった。騒ぎの最中はとにかくとして、室崎との事件のあった銃器庫の裏に、あんなに永いこと一人でいながら、どうしてそれが思い出せなかったのか、彼自身にもわからなかった。彼は、何か罪でも犯したように思って、気がとがめるのだった。
しかし、一方では、間もなく朝倉先生の前に出て、事実をはっきりさせることが出来るんだと思うと、何か昂然たる気持にさえなった。彼は、いつの間にか、朝倉先生の前で、宝鏡先生を言い伏せている自分を想像して、一人で力んでいた。
(先生は自分から進んで、僕に話したいことがあると言われた。それは、きっと僕を信じていて下さるからだ。)
彼は、そんなふうに考えた。
だが、また一方では、変に怖いような気がしないでもなかった。室崎との事件のあとで、先生に「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。」と言われたことが、ふと思い出された。彼は、あまり図に乗って喋《しゃべ》るようなことはすまい、と自分の心に言いきかせた。
弁当をすますと、彼は、はやるような、それでいて変に重たいような気持で廊下を歩いた。教員室の戸をあけると、炭火のガスでむっとする空気が、部屋中にこもっているのを顔に感じた。
彼は、その空気の中を小田先生の机のそばまで歩いて行った。
小田先生は、次郎を見ると、待っていたように立ち上って、彼を別室へつれこんだ。その室は、生徒監室のすぐ隣で、何か問題の起った時に、生徒を取調べたり、訓戒したりする室だった。次郎は、この室にはいるのははじめてだったが、さすがに身がひきしまるのを覚えた。
ところどころ虫の食った青毛氈のかけてある卓を中にして腰をおろすと、先生はすぐたずねた。
「宝鏡先生が、非常に怒っていられるが、いったい、どうしたんだ。」
「僕には、わかんないです。」
次郎は、そっけなく答えた。が、すぐ、言い直すように、
「ほかの生徒にきいて下されば、わかるんです。」
「それは訊いてみたんだがね。宝鏡先生の言われるのとは、ちがっているんだ。」
「どうちがっているんですか。」
次郎は、あべこべに詰問《きつもん》するような調子だった。
「宝鏡先生は、君には、いつも先生の揚足をとって面白がる癖がある、と言われるんだ。」
「揚足をとるって何ですか。」
「先生のちょっとした言い損いや書き損いをつかまえて、とやかく言うことだよ。」
まるで、国語の質問にでも答えているような言い方だった。
「すると、先生にどんな誤りがあっても、生徒は默っている方がいいんですか。」
次郎は、もうすっかり意地わるくなっていた。彼には、小田先生が、宝鏡先生の方に非があるのを知っていながら、強
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