三四回ほども宙に浮いたり、床にぶっつかったりしたころ、誰かが、とうとうたまらなくなったらしく、叫んだ。
「頑張れ!」
すると、つづけ様に二三ヵ所から同じような声がきこえた。
その声は、先生の興奮《こうふん》した耳にもたしかに這入ったらしかった。その証拠には、先生は、その声がすると、急に次郎を机から引きはなすことを断念《だんねん》し、その代りに、机もろ共、次郎をうしろから抱きかかえて、廊下に出し、戸をびしゃりと閉めてしまったのである。
次郎は、廊下に出されてからも、暫くは机の上に顔を伏せていた。涙は出なかった。しかし、涙以上のせつないものが彼の胸の底からわいて来るのを感じた。
彼はその感じで突きあげられたように、むっくり顔をあげた。そして長い廊下の端から端に視線を走らせた。どこにも人影が見えなかった、ただ、自分と自分の机だけがひっそり閑と立っているのが、彼には異様な世界のように思われた。
すぐ隣の教室からは、英語の斉唱の声がきこえ出した。しかし彼自身の教室は、気味わるいほど静まりかえっている。彼は、ぴったり閉まっている戸口にじっと眼をすえた。そして、自分はこれからどうすればいいんだ、と考えた。しかし、彼の考えはとっさにはまとまらなかった。何も自分に悪いことなんかありゃしない、堂々と教室にはいって行くんだ、とも考えられたし、また、はいって行くのがいかにも未練がましいようにも思えたのである。
そのうちに、教室の中の気配が変に騒がしくなって来た。言葉ははっきりと聞きとれなかったが、先生が何か言うと、生徒が方々からそれに突っかかっているような様子である。次郎はじっと耳をすました。すると、廊下に面した磨硝子の窓の近くの席から、よく聞きとれる声がきこえた。
「本田は、ふだんから先生のあら探しなんかする生徒ではありません。それは僕がよく知っています。」
その声の主は、次郎がこのごろ急に親しくなり出した新賀峰雄にちがいなかった。新賀はいつも、ずばずばとものを言う生徒だりた。体格もりっぱで、顔にどことなく気品があり、入学の当初から、おれは将来は海軍に行くんだ、といつも言っていた。
新賀の声に応じて、「そうです、そうです」と叫ぶ声があちらこちらから聞えた。次郎はそれを聞くと、なぜか急に泣きたくなった。彼は一散に廊下を走って校庭に出た。そして、かつて五年生の室崎を向こうにまわし、必死の戦いをいどんだことのある銃器庫の陰に身をかくして、しきりに涙をふいた。
鐘が鳴り、更につぎの時間の鐘が鳴っても、彼はそこを動かなかった、無届で早引をしたり、あいだの時間を休んだりすることは、校則でとりわけ厳重に禁じられているのを、百も承知の彼だったが、そんなことは、彼にとって今は全く問題ではなかった、彼は考えれば考えるほど、無念さで胸がふくらんで来るだけだった。夏以来、彼自身でも健気な努力をして来たつもりだったが、それも無駄だったという気がしてならなかった。それで無念さがなお一層かき立てられた。「無計画の計画」という言葉をとおして、いくらか形を与えられかけていた彼の人生観も、そうなると、もう何の役にも立たなかった。
「ちえっ。」
と彼は何度も舌打をしたあと、やっと一二歩足をかわしたが、しかし、どこに行こうというあてもなかった。彼はただそこいらを行ったり来たりした。彼の靴裏には、白楊の葉にうずもれてまだ新芽をみせない枯草が、ぼそぼそと音を立てた。
歩きまわっているうちに、ふと、彼の頭に妙な考えが浮かんで来た。それは、
(これからうんと数学を勉強するんだ。そして毎時間山伏を困らしてやるんだ。)
という考えだった。そう考えた時の彼の心に浮かんでいた先生の名は、むろん、「トミテル」ではなかった。また「[#「また「」は底本では「「また」]ホウキョウ・ホウシュン」でもなかった。それはたしかに「山伏」にちがいなかったのである。
彼は、われ知らず、もう半年以上も忘れていた皮肉な微笑をもらした。そして、靴のかかとで二三回強く枯草をふみつけたあと、思いきったように教室の方に足を運んだ。足を運びながら、彼は、小学校三年のころ、亡くなった母に、お祖父さんの算盤《そろばん》をこわしたのはお前だろう、とおっかぶせられて、そのまま無実の罪を被てしまった時のことを思い出し、さすがにいやな気持になった。しかし、それは彼の決心をにぶらすどころか、かえって彼を興奮させるに役立つだけだったのである。
教室にはいると、彼は、
「おくれました。」
と、ただそれだけ言って、自分の席についた。彼の机は、もうあたりまえに並べてあり、筆入も、中身といっしょに、きちんとその上にのせてあった。
その時間は、ちょうど学級主任の小田という若い国語の先生の時間だったが、次郎の顔を見てちょっとうなずい
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