人間が強いのではなくて、何かもっと大きな力がその奥に仂いているからにちがいない。)
彼の考えは、いつの間にか神というものにぶっつかっていた。それは、彼がたった今拝んだ天神様とは限らない、眼に見えぬ秘密な力だった。むろん、それが彼の胸深く信仰という形をとるまでには、まだ非常に距離があるらしかった。しかし、それは決して概念の戯《たわむ》れではなかった。彼は少くとも真に彼自身の弱さを知り、心からへり下りたい気持になっていたのである。それは、彼が中学に入学して間もないころ、「人に愛される喜び」から「人を愛する喜び」への転機において経験したものよりも、はるかに純粋な経験だった。前の経験では、それが彼の健気な道心の発露であったとはいえ、その中にはまだ作為の跡があり、自負や功名心がいくぶん手伝っていなかったとはいえなかった。今の次郎には、そうしたまじり気は少しもなかった。彼はただひしひしと自分の弱さを感じていた。そして宝鏡先生は、もはや一段高い立場から同情される人ではなくて、同じ弱い人間として、心から親しんで行きたい人になっていたのである。そこには、もう、「愛されたい」とか「愛したい」とかいうような、自分自身を価値づけた立場は少しも残されていなかった。在るものはただ大いなるものにへり下る心だけであり、そのへり下る心から、宝鏡先生のような弱い心の人が、悲しいまでに彼に親しまれて来たのである。
この純粋な気持は、彼の胸をふしぎに爽《さわ》やかにした。同時に彼は、一刻も早く父のまえに身をなげ出して謝りたい気持になった。その気持には、もう何のはからいもなかったのである。
(そうだ。父さんは、もうとうに帰って来ておいでだろう。ぐずぐずしては居れない。)
彼は、急いで鳥居をくぐり、ふたたび川沿いの路に出たが、向う岸の暗い青田から水を渡って吹いて来る風は彼の額に凉しかった。彼は、いくぶんはずむような足どりで家に急いだ。
一三 日よけ
帰ってみると、俊亮は默然として茶の間に坐っていた。二三冊の帳簿をまえにひろげ、団扇も使わないで、じっと何か考えているふうだったが、次郎を見ると、すぐ台所の方を向いて言った。
「お芳、次郎が帰って来たよ。」
台所では、お芳がもう食事のあと片づけをしているところだったが、
「あら、そう。……次郎ちゃん、ひもじかったでしょう。どこへ行ってたの。」
次郎は、二人の言葉から、自分のいなかった間の家の様子を直感して、うれしいような悲しいような気持になった。彼は、しかし、すぐ台所に行く気にはなれず、そのまま俊亮のまえにかしこまって首をたれた。
「次郎ちゃん、ご飯は?」
お芳が台所から声をかけた。
「あとでいいです。」
次郎は首をたれたまま答えた。
「どうしたんだ。早くたべたらどうだ。」
俊亮は、そう言って、ひろげていた帳簿をばたばたとたたんだが、すぐ団扇をもって座敷の方に立って行った。
次郎は、ひとり取残されて、もじもじしながら、台所の方を見た。するとお芳が妙に意味ありげな眼付をしてうなずいて見せたので、思いきって、ちゃぶ台のそばに坐ることにした。
「お祖母さんは?」
次郎は、お芳に飯を盛ってもらいながら、たずねた。
「さっき、次郎ちゃんを探して来るって、俊ちゃんと二人でお出かけになったんだよ。たぶん橋の方だと思うけれど。……次郎ちゃんは、どちらからお帰り。」
「僕、橋の方から帰って来たんです。天神様にいたんですけれど。」
「じゃあ、お祖母さんは橋を渡って向こうにいらしったのかも知れないわ。」
それからしばらく、どちらからも口をきかなかった。次郎は、たべかけた飯椀を急に下に置き、箸を持った手を膝にのせ、何か思案していたが、
「僕、今日はお父さんに済まないことをしちまったんです。」
「ええ……」
と、お芳は、あいまいな返事をしたが、しばらく間を置いて、
「実はお父さんも、仙吉にその話をおききになって、そりゃあびっくりなすったの。それに、お祖母さんが、今日はめずらしく次郎ちゃんの肩をもって、かえってお父さんが気がきかないように仰しゃるものだから、よけいいけなかったわ。お父さんは、そんなことをいいことのように次郎ちゃんに思わせるのが恐ろしいことだと仰しゃってね。あたし、今日は、ほんとにどうなることかと思ったわ。お父さんが、あんなに真青な顔をしてお祖母さんと言いあいをなさるなんて、全くはじめてですものね。でも、もう大丈夫だわ。お祖母さんも、あとでは、自分が悪かったって、折れていらっしったようだから。」
次郎は、じっと考えこんだ。それから、思い出したように飯をかきこみ、すぐ茶にしたが、
「しかし、春月亭は、まだあれっきりでしょう。」
「ええ、でも、その方はお父さんがご自分で何とかなさるおつもりらしいわ。ひょっ
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