どまりした。そのうちに、ふと何か思いついたように、本殿のうしろの、境内で最も大きい樟の木に向かってまっすぐに歩き出した。
 この大樟の根元は、らくに蓆一枚ぐらい敷けるほどの楕円形な空洞になっている。近所の子供たちが、その中で、ままごと遊びなどをしているのを、彼はこれまでによく見かけていたのである。のぞいて見ると、いくぶんしめっぽそうに見えたが、十分ふみならされた枯葉が、ぴったり重なりあって、つやつや光っていた。彼は、その中にはいり、すぐごろりと仰向きにねころんで、両掌《りょうて》を枕にした。
 内部の朽ちた木膚が不規則な円錐形をなして、すぐ顔の上に蔽いかぶさっている。下の方は、すれて滑らかなつやさえ出ているが、上に行くに従って、きめが荒く、さわったらぼろぼろとくずれそうに思える。円錐形の頂上にあたるところは渦巻くようにねじれていて、その奥から、闇が大きな蜘蛛の足のように影をなげている。次郎の眼が、そうした光景を観察したのも、しかし、ほんの一瞬だった。彼は、ねころぶとすぐ、ふかいため息をついて瞼をとじた。そして、心のうずきが、ぴくぴくと眉根を伝わって来るのをじっと我慢した。
「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。それに、だいいち、思いきりがいいんだよ。」
 お祖母さんがさっき言ったそんな言葉が、そのうちに、彼の記憶を否応《いやおう》なしに遠い過去にねじ向けて行った。今の彼にとっては、そんな言葉にふさわしい彼の過去は、思い出しても身の縮むようなことばかりだった。とりわけ、お祖母さんが大事にかくしていた羊羹の折箱を盗み出して、下駄でふみにじった時の記憶が、膚寒いほどの思いで蘇って来た。彼は、もう仰向けにねていることさえ出来ず、空洞の奥の方に、横向きに身をちぢめ、頭を膝にくっつけるほどに抱えこんだ。
 しんとした境内に、いつから鳴き出したのか、じいじいと蝉の声がきこえていたが、それが彼の耳には、いやな耳鳴のように思えた。
 彼は、とうとう日が暮れるころまでそこを動かなかった。しかし、猛烈な蚊の襲来には、さすがにいたたまれず、全身をかきむしりながら、やっとそこを出て、またあたりをぶらつき出した。見ると、拝殿の近くには、涼みがてらの参詣者らしい浴衣がけの人が、ちらほら動いている。おりおり鈴の音もきこえて来た。彼は、なぜということもなしに、自分も鈴を鳴らしてみたい気になり、石燈籠の近くから参道の石畳をふんで、拝殿のまえに進んだ。
 拝殿は、もう真暗だった。奥の本殿からうすぼんやりと光が流れて、眼のまえの賽銭箱のふちをあるかなきかに浮かしている。次郎はじっとそれに眼をこらした。そのうちに、なぜか涙がひとりでにこみあげて来た。それは、しかし、悔悟の涙といえるようなきびしい涙ではなかった。むしろ、乳母のお浜や、亡くなった母やの思い出にもつながっている、人なつかしい、甘い涙といった方が適当だったのである。彼は、ついさっきまで、胸いっぱい、乾き切った栗のいがでもつめこんでいるような気持でいたのだが、その涙と同時に、何か知ら、胸のうちが温かくぬれて行くような感じになって来たのだった。
 彼は涙をふいて、もう一度本殿の方にじっと瞳をこらした。それから静かに鈴をふり、拍手《かしわで》をして、つつましく頭をたれた。その瞬間、どうしたわけか、ふと、はっきり彼の眼に浮かんで来た人の顔があった。それは宝鏡先生の顔だった。巨大なおどおどしたその顔が、次郎には、今はふしぎになつかしまれた。生徒の見送りをさけて、というよりは、見送る生徒が皆無でありはしないかを恐れて、こっそり駅を立ったであろう先生の淋しい心が、何かしみじみとした気持に彼をさそいこむのだった。
 参拝を終えて参道を鳥居の方に歩きながら、彼は、ふと、人間の弱さということを考えた。それは、彼がこれまでに、まるで考えたことのない問題ではなかった。しかし、この時ほど真実味をもって彼の胸をうったこともなかったのである。これまでに彼が考えて来た人間の弱さというのは、普通に謂ゆる意志薄弱とか、臆病とかいったような意味以上のものではなかった。従って彼は、自分をさほどに弱い人間だとは思っていず、たとえば白鳥会などで、自分が自分に捉われていることに気がついたり、自分を制しきれないでつい荒っぽい言動に出たりしても、それを自分が弱いせいだとは少しも考えていなかったのである。彼は、弱い人間の標本として、よく宝鏡先生を思いうかべていた。そのために、あとでは、却ってある意味で先生に心をひかれるようにさえなったくらいなのである。しかし、今の彼の気持は、全くべつだった。
(人間は弱い。宝鏡先生も弱いが、自分もそれに劣らず弱い。もともと強い人間なんて、この世の中には一人もいないのではないか。かりに強い人間がいるとしても、それはその
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