》は、あわれにもまたほほえましいものであった。彼は、そうした惑乱と狼狽との後で、亡くなった母への思慕を胸深く秘めつつも、結局、すなおに新しい母の愛に抱かれる喜びを味わうことが出来たのであるが、それは、彼が、彼を愛しようとする人に顔をそむけてまで暗いところを見つめるほど、ひねくれた心の持主ではなかったことを証明するものであった。彼のこのすなおさは、やがて大巻一家――継母の実家の人々――とりわけ、彼のためには、新しい祖父であった運平老の仙骨によって、いよいよ拍車をかけられることになり、彼の生命の健康さは、継母を迎えたためにかえって増進して行くかにさえ思われたのである。
 運命は、しかし、そのすなおな生命を、間もなく裏切りはじめた。彼の運命の最も冷酷な代弁者は、いつも本田のお祖母さんだったが、この時もまたそうであった。お祖母さんは、彼に対する愛の欠乏から、彼をして中学の入学試験に失敗せしめる原因を作り、また継母の彼に対する愛を他の子供に向けかえさせるためにあらゆる手段を用いた。こうして彼は、ふたたび新しい形での里子に押しもどされようとしたのである。彼も、さすがにその時には、喜びに対する一切の望みを絶つかとさえ思われた。彼は、彼がこれまで求めて来た人々の愛を強いて拒みはじめた。愛を求める彼自らの心を、恥じ、おそれさげすみはじめた。そして十四歳の少年にしては、あまりにもむごたらしい自己嫌悪にさえ陥りかけたのである。こうしたことが若い生命にとっての大きな危機でなくて何であろう。
 だが、こうした危機ですらも、彼の場合においては、決して彼の生命の不健全さを示すものではなかった。むしろ、それは、彼が彼の運命に打克《うちか》つ新たな道への曲り角に立ったことを意味したのである。彼の眼はそれ以来次第に内に向かっていった。そして、彼は彼がこれまで求めて来たものが、いつも彼自身の外にあったのを知った。外なるものはいつも動く。内に不動なるものを確立しないかぎり、その求むる喜びは泡沫《ほうまつ》のごときものに過ぎない。彼は、そうした真理におぼろげながら気づきはじめた。そして、いよいよ、自分の弱さと醜《みにく》さとを恥じ、自己嫌悪に拍車をかけていった。この自己嫌悪は、しかし、同時に彼の自己鍛錬であり、彼が真の意味で彼自身の生命を開拓して行くための大きな転機だったのである。彼は沈默がちになり、心から
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