笑うことも怒ることも出来なくなった。それは彼の内省による心の分裂を示すものであった。また彼は、時として思いきった言動にも出た。それは、むろん、彼自身では、ある確信をもってやっていたことではあったが、はたから見ると必ずしも正しかったとばかりはいえなかった。むしろ、周囲の人々をして眉をひそめしめるようなことが多かったのである。だが、もし「考える」ということが人間を人間らしくする最も大切な条件の一つであるならば、彼がその間に人間として伸びつつあったことだけは、たしかである。われわれは、青年期に近づいた少年が、沈默がちになったり、すなおでなくなったり、そのほか、大人の常識では理解の出来ない言動に出たりするのを見て、直ちにその少年が生命の健全さを失いつつあるものと速断してはならないのだ。飛行機でも船でも、その方向を転ずるためには、必ずその胴体を傾ける。そしてその方向転換が急角度であればあるほど、その傾きも大きいのである。次郎が、これまで外に求めていたものを内に求めるようになるために、甚しく心の平衡《へいこう》を失ったのは、むしろ当然だったといわなければはるまい。その意味で、私は、彼の自己嫌悪が自己嫌悪に終らず、その失われた心の平衡が、彼自身を転覆《てんぷく》させるほど甚しいものでなかったことを、むしろ彼のために祝福してやりたいとさえ思うのである。
だが、この場合にも、われわれは、彼が彼自身の力のみで彼の生命を健全に保つことが出来たと思ってはならない。愛の支えは、いかほど独立不|羈《き》になろうとする生命にとっても必要なのである。愛は、愛を拒もうとするものにこそ、最も聰明《そうめい》に与えられなければならないのだ。
では、次郎に対してこの役割を果したものは誰だったか。それは、もはや、乳母や、父や、正木老夫婦ではなかった。というのは、彼らのうちのあるものは、それに堪えうるだけの聰明さを十分に持ちあわせていたとはいえ、次郎にとっては、あまりにも身近な相手であり、そして、彼らの愛に溺《おぼ》れることを、彼自身強いて拒もうとしていた相手だったからである。
この場合、次郎が、権田原先生の教えをうけていたということは、何という仕合わせなことであったろう。権田原先生の教え子に対する愛には、深い思想があり、寛厚で、しかも枯淡な人格のひらめきがあった。そしてその愛の表現には、次郎が強いて拒
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