し行ったらきっと家が見つかるだろう。このぐらいの路がついていて、三里も五里も人が住んでいないはずはないんだよ。」
大沢は励ますように言った。次郎は答えなかった。すると恭一が急に立ちどまって、
「引きかえした方がよかあないかなあ。」
「さっきの村までかい。」
と、大沢も立ちどまって、
「しかし、あれからもう二里はたしかに歩いたんだぜ。」
次郎は、もうその時には、路ばたの木の根に腰をおろし、二人の顔を食い入るように見つめていた。
三人が、この冬の真最中《まっさいちゅう》に、「筑後川上流探検」――彼らはそう呼んでいた――をはじめてから、すでに四日目である。探検とはいっても、べつに周到な計画のもとにやりはじめたのではなく、三人とも地図一枚も持っていなかった。久留米までは汽車で来たが、それからは川に沿って路のあるところを、本流だか支流だかの見境もなく、ただやたらに奥へ奥へと歩き、そして、日が暮れそうになると、行当りばったりに、寺があれば寺、それがなければ農家に頼んで泊めてもらい、翌朝弁当を作ってもらって、一人あたりなにがしかのお礼を置いて来るといったやり方だった。何でも、第二学期の試験がすんだ日、大沢がたずねて来て雑談しているうちに、誰かが「背水の陣」という言葉をつかったのがもとらしく、自分で自分を窮地《きゅうち》に陥《おとしい》れて苦労をしてみるのも面白いではないか、という意見が出、更にそれが、「無計画の計画」という大沢の哲学めいた言葉にまで発展して、翌日から、さっそくそれを実行に移そうということになり、これも大沢の発案で、「筑後川上流探検」ということに決まったわけなのである。
旅費も、むろん、そんなわけで、十分には用意していなかった。もっとも、恭一や次郎にしてみると、許しも得ないで家を飛び出すわけにはいかず、だいいち一文なしではどうにもならなかったので、大沢の帰ったあとで、二人が父の俊亮におずおずその計画を語すと、俊亮は、
「次郎も行くのか。」
と、笑いながら、わけなく二十円ほどの金を出してくれた。それに、はたで聞いていたお祖母さんも、心配しいしい、恭一の財布にいくらかの小銭を入れてくれたので、汽車に乗る前には、大沢の懐にしていた分まで合わせると、三十円近くにはなっていたのだった。それを大沢が全部一まとめにして預かることになり、今日まで何もかも賄って来たという
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