気づけたのである。
 彼のこの道心が生み出した周囲への結果も、またすばらしいものであった。彼は、乳母の彼に対するこれまでの盲目的な愛を一夜にして道義的、理性的ならしめた。そして翌日には、家族がうちそろって、――彼の運命の最も冷酷な手先であったお祖母さんをさえ加えて、――乳母とともに、継母の実家である大巻の家をいかにも楽しげに訪問するという、本田家はじまって以来の奇蹟を生み出したのである。
 その日の彼は限りなく幸福であった。そして、彼の胸は、運命に打克つ自信で張りきっていた。彼の生命は、全く健康そのものだったのである。
 だが、彼の幼年時代からの運命によって、彼の心の奥深く巣食って来た暗いものや、ゆがんだものが、それで果して全く影を消してしまったであろうか。彼の自信と幸福とが、そのまぼろしによっておびやかされるようなことが、このさき絶対にないといえるであろうか。そしてまた、彼の将来の運命の波は、彼の生命の健全さをあざけるほどに高いものでないと、はたして保証されうるのであろうか。私は読者とともに、これから注意ぶかく彼の生活を見まもって行きたいと思うのである。

    二 無計画の計画(※[#ローマ数字1、1−13−21])

「大丈夫かい、次郎君。」
 大沢がうしろをふり向いてにっこり笑った。恭一もちらと次郎の顔をのぞいたが、その眼は寒く淋しそうだった。
 日はもう暮れかかって、崖下を流れる深い谷川の音がいやに三人の耳につき出していた。水際に沿って細長く張っている白い氷の上に落葉が点々と凍《し》みついていたが、それが次郎の眼には、さっきから、大きな蛇の背紋のように見えていたのである。
「大丈夫です。」
 次郎は、力んでそうは答えたものの、さすがに泣出したい気持だった。
「ひもじいだろう。」
 大沢は彼と肩をならべながら、またたずねた。
「ううん。」
「あかぎれが痛むんかい。」
「ううん。」
「寒かあないだろうね。」
「ううん。」
 次郎は、じっさい、寒いとは少しも感じていなかった。外套なしの制服で、下にはシャツ一枚だったが、坂道を歩くには、それでちょうどよかったのである。しかし、ひもじくないというのも、あかぎれが痛くないというのも、たしかに嘘だった。何しろ、今朝歩き出してから、弁当の握飯の外には水を飲んだだけだったし、足は足袋なしの下駄ばきだったのだから。
「もう少
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