がしたもんですから……」
「ふふふ。」
お内儀さんは、鼻の先で笑って、そっぽを向いた。そして長煙管にたばこをつめて手荒にマッチをすり、一服吸ってぷうっと吹き出したあと、
「そりゃあ、この坊ちゃんがどうあってもあやまりたいと仰しゃるのを、あたし、むりにおとめはいたしませんよ。それでこの家の根太《ねだ》にまさかひびも入りますまいからね。ご随意にせりふの一つぐらい言ってご覧になるのも結構でしょうよ。だけど、お芝居はお芝居、ほんとうの世間はほんとうの世間と、ちゃんとけじめだけはつけていただきたいものでございますね。」
次郎は、もうさっきから、あやまるどころか、座蒲団をつかんでなげつけたいような気になり、何度も父の横顔をのぞいては、その機会をつかもうとしていた。しかし、父が、たまに苦笑するだけでまるで怒りというものを忘れたような顔をしていたので、そのたびに、彼はふるえる膝を懸命に両手でおさえて、我慢していたのである。ところが、今度は、もう父の横顔をのぞいて見る余裕さえ彼にはなかった。彼は思わず右手で座蒲団の端をつかみ、半ば腰をうかして唇をふるわせながら、お内儀さんをにらんだ。
お内儀さんは、しかし、もうその時に存分に毒づいたあとの小気味よさを見せびらかすかのように、窓の方を向いて、煙管をくわえていた。そして、俊亮が、瞬間、次郎の方に手を突き出して彼を制したのさえ、気がついていないかのようであった。
俊亮は、今までとはすっかり調子の変った、底力のある声で言った。
「お内儀さん、私は、この子に人間の道だけはふませたいと思って、せっかく自分でもあやまりたいと言うものですから、いっしょにつれて来たんですが、その気持がわかって下さらなきゃあ、いたし方ありません。勘定ずくの取引だけのことなら、何もこの子をつれて来るには及ばなかったんです。いや、私がわざわざ足を運ぶにも及ばなかったんです。あんたの方から何とかお話があるまで待っていりゃあ、それでよかったはずですからね。とにかく、この子は帰すことにしましょう。……じゃあ、次郎、さきにお帰り。」
「父さんは、まだいるんですか。」
と、次郎は、喰ってかかるように、少し涙のたまった眼をしばたたきながら、言った。
「ああ、父さんには、もう少し用がある。」
次郎は、しかし、動こうとしない。
「どうしたんだ、さっさとお帰り。」
「僕、父さんと
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