でになったんではありますまいね。」
「むろん、そんなことはありません。」
「じゃあ、いったい、災難とか、お気の毒とかで済ましていられますかね。あたしにこんな赤恥をかかしたそもそものおこりは、どなたなんでしょうね。」
「それは、この子がつい間違ったことをし出かしたからですよ。それも、もとをただせば店の不始末からですがね。それで、実は、二人そろっておわびに上ったわけなんですが……」
 次郎は、父はどうして番頭の肥田のことを言い出さないのだろう、肥田のことを言い出せば、お内儀はぐうの音も出ないだろうのに、と思った。ところが、次郎の驚いたことには、肥田のことは、あべこべにお内儀の方から言い出したのだった。
「ふん、店の不始末だなんて、それで遠まわしに肥田さんのことが仰しゃりたいんでしょう。ようくわかっていますよ。だけど、ねえ、本田さん、もともと肥田さんはこちらからお願いして遊んでいただいたわけではありませんよ。お酒の預証なんかで遊んでもらっちゃあ、だいいち、こちらが迷惑しますし、およしになったらいかがですかって、あたし何度もにがいことを申しあげたくらいですからね。これだけはご承知願っておきますよ。」
「いや、肥田のやったことは、私のやったことも同然ですから、今さら、そんなことをとやかく言ってみたところで仕方のないことです。それよりか、どうでしょう、済んだことは済んだこととして、この子もせっかくあやまりたいと言っているのですから、一応あやまらしてお気持をさっぱりなすって下すっちゃあ。」
「そんなにご丁寧にしていただくには及びませんよ。わるうございましたっていうお言葉だけを、何べん承ったところで、それで水が酒になるものでもなし、きずのついた暖簾がもとどおりになるものでもありませんからね。それに第一、あたしは泣きおとしの手っていうのが大きらいでございましてね。世間様には、よくそんな手をおつかいになる方がありますけれど。ほほほ。」
 俊亮もさすがにちょっと不愉快な顔をしたが、しいて笑いにまぎらして窓のそとを見た。お内儀さんは、その様子を、睨みつけるように見ていたが、
「本田さん――」
 と、いやに調子をおとして、
「そうすると、今日わざわざおいで下すったのは、それだけのご用だったんですね。」
「ええ、実はこの子が、ひとりであやまりにあがりたいと言ったのですが、それじゃあ私も心細い気
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