次郎が急に店で仂き出しても、「あんなこと面白いんかなあ」といったぐらいの感想をもらすだけだった。
 次郎が店の手伝いをやろうと思い立った直接の動機は、むろん恭一の決意に対する同感だった。何だかじっとして居れないというのが、彼が恭一にあてた長い手紙を書いた時の気持だったのである。しかし、理由はただそれだけではなかった。彼には、店の事情をもっとはっきり知りたい、という考えがあった。また、自分が手伝ったために、店がいくらかでもよくなるのではないか、という希望もあった。そうした考えや希望の底に、彼の幼年時代からの好奇心と功名心が全くひそんでいなかったとはいえなかったかも知れない。しかし、彼としては、自分でめったに経験したことのないほど懸命な気持だったのである。
 だが、ほんの五六日も仂いているうちに、彼はもう絶望に似たものを感じはじめた。というのは、売場の酒は、特上、上、中、下と、四階段にもわけてあるのに、もとになる酒はほんの一種で、ただ水の割りかたをちがえてあるばかりだったし、それに、そのもとになる酒というのが、必ずしも一定した酒ではなく、始終銘が変っている、ということを発見したからである。彼は、それでも、最初それを知った時には、酒というものはそんなものかしら、とも思い、そっと仙吉にたずねてみたのだった。すると仙吉は、にやにや笑いながら、
「以前にはこんなことはなかったんですよ。何しろこの頃のように仕入れがうまく行かなくなっちゃ、こうでもするより仕方がないでしょう。」
 そしていかにも皮肉な調子で、
「しかし、酒の味のわからない家では、今でも買いに来てくれるんですから、ありがたいものですよ。」
 次郎は、そうきくと顔から火の出るような気持だった。そして、もうそれで何もかも見透しがついたように思い、仂く元気もなくなったのであるが、さればといって、僅か五六日でよしてしまう気にもなれず、朝倉先生に話してみたらどう言われるだろうか、とか、正木や大巻ではもう知っているだろうか、とか、いろんなことを考えながら、相変らず手伝うことだけはやめずにいた。
 すると、それからなお一週間ほどたったある日のこと、変にしゃがれた声で、
「今日は。」
 とあいさつして、やけに喉のあたりを扇であおぎながら、店に這入って来た女があった。でっぷり肥った五十前後の白あばたのある女で、小さなまげを結《ゆ》って
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