を見、少し気まずそうに、
「お母さん、では、行ってまいります。」
お祖母さんは、まだ袖を眼に押しあてたまま、返事をしなかった。
「次郎ちゃん、今度はいつ来る?」
俊三は、重たそうに壜詰をさげて部屋にはいって来た次郎を見ると、すぐ立ってたずねた。恭一は、考えぶかそうに次郎を見ているだけだった。
「うむ――」
と、次郎は生《なま》返事をしながら、壜詰を上り框《がまち》におくと、いそいで仏間の方に行った。仏間には田舎にいたころのぴかぴかする仏壇がそのまま据えてあり、その中にまだ白木のままの母の位牌《いはい》が、黒塗りの小さな寄せ位牌の厨子《づし》とならんで、さびしく立っていた。次郎はその前に坐ると、眼をつぶって合掌した。
観音さまに似た母の顔が、すぐ浮かんで来た。お浜のあたたかい、そして励ますような眼が、それに重なって浮いたり消えたりした。彼は悲しかった。つぶった眼から急に涙があふれて、頬を伝い、唇をぬらした。彼は、なんとなしに、この家の仏壇を拝むのもこれでおしまいだ、という気がしてならなかったのである。
「次郎ちゃん、父さんが待ってるよっ。」
俊三が仏間に這入って来ていった。
次郎はあわてて涙をふいた。そして俊三といっしょに茶の間の方に行きかけると、恭一が、足音を忍ばせるようにして、二階からおりて来た。彼は、俊三の方に気をくばりながら、
「次郎ちゃん、ちょっと。」
と呼びとめた。
次郎が近づいて行くと、恭一は、梯子段《はしごだん》をおりたところで、自分のからだをぴったりと次郎のからだにこすりつけて、ふところにしていた右手を、すばやく次郎の左袖に突っこんだ。
次郎は、脇《わき》の下を小さな円いものでつっつかれたようなくすぐったさを覚えた。彼はそれが万年筆であるということを、すぐ覚った。そして嬉しいとも、きまりがわるいとも、怖いともつかぬ、妙な感じに襲《おそ》われた。
「何してるの。」
と俊三がよって来た。
「くすぐってやったんだい。だけど、次郎ちゃんは笑わないよ。」
恭一はやっとそうごま化した。そして、顔をあからめなから、変な笑い方をしていた。これは、しかし、恭一にしては精一ぱいの芸当だった。
俊三は笑わない次郎の顔を、心配そうにのぞいて、
「怒ってんの、次郎ちゃん。」
次郎はますますうろたえた。が、こうした場合の彼のすばしこさは、まだ決して失われてはいなかった。彼は、恭一の方にちょっと笑顔を見せたあと、いきなり俊三の脇腹をくすぐった。俊三はとん狂な声を立てて飛びのいた。同時に恭一と次郎が、きゃあきゃあ笑い出した。
「何を次郎はぐずぐずしているのだえ。感心に仏様にご挨拶《あいさつ》をしているかと思うと、そんなところで、ふざけたりしていてさ。行くなら、さっさとおいで。」
お祖母さんの声が、するどく茶の間からきこえた。俊三は、口を両手にあてて渋面をつくった。恭一は心配そうに次郎の顔を見た。次郎は、しかし、ほとんど無表情な顔をして、茶の間に出て行き、お祖母さんのまえに坐って、
「さようなら、お祖母さん。」
と、ていねいにお辞儀をした。そして、脇腹に次第にあたたまって行く万年筆の感触を味わいながら、元気よくカバンを肩にかけた。
本田の家を出てからの次郎の気持は、決して不幸ではなかった。俊亮は、自転車に壜詰を結《ゆわ》えつけて、それを押しながら家を出たが、町はずれまで来ると、次郎をいっしょにのせてペタルをふんだ。風は寒かったし、からだも窮屈だったが、次郎は、父のマントをとおして、ふっくらした肉のぬくもりを感ずることが出来た。
彼は、恭一に万年筆をもらったことを、すぐにも父に話したかったが、なぜかいつまでも言い出せなかった。大方一里あまり走ったころ彼はやっと言った。
「あのねえ、父さん、……恭ちゃんが、そっと僕に万年筆をくれたよ。」
「ふうむ――」
俊亮はえたいの知れない返事をしたきりだった。次郎もそれっきり默っていた。そして自転車の合乗りでは、どちらも相手の顔をまともにのぞいて見るわけには行かなかったのである。
それから一丁あまり走ったころ、俊亮が思い出したようにたずねた。
「いつ、くれたんだい。」
「僕、母さんのお位牌を拝んで出て来ると、梯子段のところで、くれたよ。」
「ふうむ――」
俊亮は、またえたいの知れない返事をしたが、今度は半丁も走らないうちに、ちょっと自転車の速力をゆるめながら、
「じゃあ、恭一には、父さんがもっと上等なのを買ってやろうね。」
「うむ。」
次郎は造作《ぞうさ》なく答えた。答えてしまっていい気持だった。
彼はもっと上等の万年筆を、しかも、父自身に買ってもらう恭一の幸福を、少しも妬《ねた》ましいとは感じなかった。彼は、むしろ、恭一に万年筆をもらった喜びの奥に、何かしら気にかかっていたものが、父のその言葉で、すっかり拭い去られたような気がして、はればれとなった。そして、それから五六分もたって、もう一度、落ちついて父の言葉を頭の中でくりかえしてみたが、やはり妬ましい気には少しもならなかった。
(恭ちゃんが僕より上等の万年筆をもつのは、あたりまえだ。)
彼は何の努力なしに、そう思うことが出来た。また、恭一に万年筆をもらわないで、そのかわりに、父に買ってもらうとしたらどうだろう、とも考えてみたが、これもむしろ、恭一にもらったことの方が嬉しいような気がした。
二人は、それからあまり口もききあわなかった。口をききあうには、二人の気持が、少し複雑になり過ぎていた。それに、二人とも、口をききあわなければ物足りない、とも感じていなかったのである。
荷馬車に出あったり、土橋を渡ったり、そのほか、少しでも危険を感するような場所では、二人はかならず自転車をおりた。そんな時には、俊亮は、きまって次郎の顔をまじまじと見た。次郎も父の顔を見たが、いつもすぐ眼をそらして、少しはにかむようなふうだった。
二人は、正木につく前に、ちょっと寄道《よりみち》をして、お民の墓詣りをした。そこでも二人はあまり口をきかなかった。しかし、墓地の出口まで出て来たときに、ふと俊亮が言った。
「お前が恭一に万年筆をもらったのを、お母さんもきっと喜んだろうね。」
次郎は默って自分のカバンを見た。その中には、恭一にもらった万年筆が、もう何よりも大事にしまいこまれていたのだった。
三 大きな笑《え》くぼ
二人が正木の家《うち》についたのは十一時を少し過ぎたころだった。正木では、俊亮が午前中に来ると予想していなかったらしく、門口をはいると、みんなが、「おや」という顔をした。
老夫婦は、しかし、二人の顔を見ると、次郎の方にはろくに言葉もかけないで、せき立てるように、俊亮だけを座敷に案内した。
次郎には、それが物足りないというよりは、何かしら気になった。で、カバンを二階の子供部屋の机の上におくと、自分もすぐ座敷の方に行ってみるつもりで、梯子段を降りかけた。しかし、梯子段の下には、もう従兄弟たちが待っていて、やんやとはしゃぎながら、彼を蝋小屋の方にひっぱって行った。
蝋《ろう》小屋の蒸炉《むしろ》には、火がごうごうと燃えていた。従兄弟たちは、そのまえに行くと、めいめいに火|掻《かき》や棒ぎれをにぎって、さきを争うように、炉口《ろぐち》にうずたかくなっている蝋灰をかきおこしはじめた。蝋灰のなかからは、まるごとに焼けた薩摩芋がいくつもいくつもころがり出た。
次郎は、もうすっかり腹が減《へ》っていたので、その香ばしい匂いをかぐと、すぐその一つに手を出した。火傷《やけど》しそうに熱いのを、両手で持ちかえ持ちかえしながら、二つに折ると、黄いろい肉から、湯気がむせるように彼の頬にかかった。彼はふうふう吹いては、それを食った。従兄弟たちもさかんに食った。食いながら、みんなでいろんなおしゃべりをしては、笑った。
次郎は、急にのびのびしたあたたかい気持になり、きのうまでの不愉快な生活を夢のように思い浮かべた。そして今更のように、正木の家はいいなあ、と思った。
しかし、一方では、どうしたわけか、しばらくぶりで逢《あ》った従兄弟たちが、何とはなしに物足りないように思われてならなかった。むろん、彼らが次郎に対して、いつもよりは冷淡だったというのではない。それどころか、芋を焼いていた彼らが、次郎が帰って来たのを知ると、彼をも仲間に入れようとして、すぐ飛んで出て来たのには、むしろいつも以上の親しさが感じられた。それにもかかわらず、次郎は、彼らとこうしていっしょにおしゃべりをしたり、笑ったりしているのが、何とはなしに、いつもほどしっくりしない。
彼は、自分ながら変な気がした。
従兄弟たちは、いったいに、学校の成績はいい方ではない。久男は、恭一よりも二つも年上だが、少し耳が遠いせいもあって、中学校には二度も失敗し、やっと私立の商業学校にはいって、今二年である。源次は次郎より一つ年上で、気はきいているが、ずぼらなところがあり、やはり一度は中学校に失敗して、この三月に、次郎といっしょにもう一度受験することになっている。しかし、今でもちっとも勉強しようとはしない。この二人にくらべると、彼らの義理の弟になっている誠吉の方が、ずっと出来がいいのだが、彼はまだ尋常四年だし、次郎の勉強の相手にはてんでならない。次郎が、そんな点で、ふだんから彼らにいくぶんの物足りなさを感じていたのはたしかだった。
しかし、きょうの物足りなさは、それとは全くちがった物足りなさだった。従兄弟たちの好意は十分にみとめながらも、それがしっくり身について来ないといった感じだったのである。
これは、しかし、実は不思議でも何でもなかった。彼は、彼自身ではっきり意識していなかったとしても、やはり、心のどこかで、まだ万年筆のことを思いつづけていたにちがいなかったのである。いや、万年筆をとおして、たまたま数時間まえに示された肉親の兄の愛が、久しく彼の血管の中に凍りついていた本能の流れを溶かして、従兄弟たちの好意を、その流の上に、木の葉でも浮かすように、浮かしはじめていたにちがいなかったのである。
血は水よりも濃い。そして濃い血は淡い血よりも人の心を濃くする。次郎が今日従兄弟たちの愛をいつも程に味わい得なかったとしても、それは決して彼の軽薄さを示すものではなかったのだ。
だが、実をいうと、次郎の気持を従兄弟たちから引きはなしていた理由は、ただそれだけなのではなかった。彼の心の動きはいつも単純ではない。生れた瞬間から、八方に気をつかうように運命づけられて来た彼は、焼芋を頬張ったり、おしゃべりをしたりしている最中にも、やはり、老夫婦がせき立てるように父を座敷につれて行ったことを忘れてはいなかったのである。
彼は、焼芋を三つ四つ食い終ったころ、ふと思い出したように言った。
「僕、まだお祖父さんにご挨拶してないんだよ。」
これは、むろん嘘だった。彼はさっき茶の間にあがるとすぐ、まっさきにお祖父さんに挨拶をすましていたのである。
彼は、言ってしまって嫌な気がした。このごろめったに小細工をやらなくなっている彼ではあったが、何かの拍子に、われ知らずそれが出る。そしていつも後悔する。後悔はするが、すなおに小細工をひっこめる気にはなかなかなれない。その結果、一層まずい小細工をやって、あとでは手も足も出なくなってしまうことが多い。そんな時にかぎって、彼には母やお浜の顔を思い浮かべる余裕がない。それを思い浮かべるのは、たいてい何もかもすんでしまったあと、ひとりで、にがい後悔のあと味を噛みしめている時なのである。
「じゃあ、すぐ行っておいでよ。」
久男が年長者らしく言った。むろん次郎がどんな気持でいるのか、それにはまるで気がついていなかったらしい。
「すぐまた、ここにおいでよ。これから餅を焼くんだから。」
源次が芋の皮を炉に投げこみながら言った。
次郎は変にそぐわない気持で立ち上った。すると誠吉が、
「餅なら、僕がとって来らあ。……次郎ちゃん行こう。」
と、次郎と肩をくみ
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