わてたらしかった。三四歳ごろ、よくひきつけていた恭一の顔つきまでが思い出されて、恐ろしい気さえしたのである。そうなると、お祖母さんは折れるより仕方がなかった。
「お祖母さんが悪かったんだよ。二階に寝て、お前が風邪《かぜ》でもひいてはいけないと思ったものだから、ついあんなことを言ってしまったんだよ。二階に寝たけりゃあ、寝ていいともさ……次郎も喜ぶだろうよ。」
恭一と次郎とか、二人で二階に寝るようになったのには、お祖母さんとのこんないきさつもあったのである。それだけに、恭一は、床について次郎と顔を見合わせると、安心とも興奮ともつかない、異様な感じになるのだった。
次郎はそんないきさつについては全く知らなかった。彼は、恭一が、その晩、お祖母さんに相談してくると言って階下《した》におりたきり、三十分近くも帰って来ず、やっと帰って来たその顔がいくぶん青ざめているように思えたので、どうしたのかと、ちょっと不安にも感じたが、恭一がすぐ、
「お祖母さん、いいって言ったよ。」
と、何でもないように言ったので、その後、べつに気にもとめないでいたのだった。
二人は電燈をつけたまま床に入り、恭一は寝ながら枕時計を六時半にかけて、ねじを巻いた。それからしばらく顔を見あったあと、今度は次郎が手をのばして電燈のスイッチをひねった。しかし、いつも十時過ぎに寝るのを、今夜は九時にならないうちに寝たので、ちょっと寝つかれなかった。
「あすは落着いてやるんだよ。」
「うん。」
「むずかしい問題があったら、あとまわしにして、出来るのからさきにやる方がいいぜ。」
「うん。」
そんなようなことをしばらく話して、二人は眼をつぶった。が、やはり眠れなかった。二人はしばらくは代る代る眼をあけ、闇《やみ》をすかして、そっと相手をのぞいたりしていたが、夜具のけはいで、おたがいに相手がまだ眠っていないのがわかると、ついまた言葉を交すのだった。
話が、いつの間にか、今度来る母のことになった。恭一も、もうその話をお祖母さんに聞いていたのである。
「どんな人だい。」
「肥った人さ。大きいえくぼがあるんたぜ」
「次郎ちゃんを可愛がるかい。」
「うむ。――だけど、よくはわからないや。亡くなった母さんとは、まるっきりちがった顔だもの。」
「次郎ちゃんは、もうその人に母さんって言ってるんかい。」
「ああ、きまりが悪かったけど、とうとう言っちゃったよ。言ったっていいんだろう。」
「そりゃあいいさ。どうせ、言わなきゃあならないんだから。」
「恭ちゃんも、言うんかい。」
「ああ、言うとも。……だけど変だなあ。まるっきり知らない人に、母さんなんて。僕、ほんとうは、そんな人来ない方がいいと思うよ。」
「そうかなあ――」
次郎は何か考えるらしかったが、
「でも、大巻のお祖父さん、僕、大好きだよ。」
「大巻のお祖父さんって誰だい。」
「母さんになる人の父さんさ。剣道を教えてくれるよ、うちに行くと。」
「ふうむ。……次郎ちゃん行ったことあるんかい。」
「ああ、もう何度も行ったよ。いつも土曜から行って泊るんさ。」
「そんなにいいお祖父さんかい。どんな顔の人? 正木のお祖父さんみたい?」
「ううん、天狗の面そっくりだい。正木のお祖父さんも背が高いんだけど、もっと高いよ。いつも肩をいからしてらあ。」
「ふうむ。……それでやさしいんかい。」
「やさしいかどうか知らないけれど、面白いよ。僕、あのお祖父さんだと、どなられたって怖くなんかないや。」
「どなられたことある?」
「うん、あるよ。僕、あのうちの泉水の鯉をつりあげちゃったもんだから。」
「泉水の鯉って緋鯉かい。」
「ううん、本当の雨鯉さ。大っきいのがいるぜ。」
「ふうむ。そして、その人、何て言ってどなったんだい。」
「ただこら[#「こら」に傍点]あって言ったきりさ。僕、びっくりしてすぐ鯉を逃がしてやったら、惜しかったなあって、笑ってたよ。」
「次郎ちゃんがつるのをどっかから見てたんだね。」
「見てたんだよ。座敷から。でも、僕にはとてもつれないと思って、安心していたんだろう。」
「そりゃ面白かったなあ。次郎ちゃんより、そのお祖父さんの方がびっくりしたんだろう。」
二人は笑った。それから、恭一は、しばらく何か考えているらしかったが、
「お祖母さんもいるんかい。」
「いるよ。豚みたいに大っきいお祖母さんだけれど、やさしいよ。それから、附属の先生もいるんだ。僕、その人も好きさ。」
「附属の先生? ふうむ……それから?」
「三人きりさ。僕たちの母さんになる人まで合わせると四人だけど。」
「附属の先生って、いくつぐらいの人?」
「よくわかんないけど、三十ぐらいかなあ。……弟だろう、母さんになる人の。……徹太郎っていうんだってさ。」
「母さんになる人、何ていう名?
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