心の中でそう思いながら、このごろにない快い興奮を感じた。
 間もなく、みんなは一軒の茶店にはいって弁当をひらいたが、その頃には、次郎はもうほかの児童たちといっしょになって、いつものとおり元気よくものを言っていた。

    七 枕時計

 入学試験の第一日は無事にすんだ。その日は、次郎の得意な読方や綴方だったので、彼は成績にも十分の自信を得て帰って来た。
 第二日目は算術だった。
 算術は、どちらかというと、次郎には苦手なのである。恭一はそれを心配して、次郎が正木から帰って来たその日から、ほとんどつきっきりで、その方の勉強を手伝ってやった。二人は頬をよせあって問題を解いた。次郎は、学校で先生に教わるのとは何かちがった、身にしみるような新しい気持で勉強に熱中するのだった。
 だが、その試験も明日にせまると、恭一は、いかにも心得顔に言った。
「算術の試験には、うんと頭をやすめて置く方がいいんだぜ。だから、きょうは早くねようや。」
 で、九時近くになると、二人は床につく用意をはじめた。
 二階の勉強部屋が、二人の寝間だった。二人は自分たちの机のまえに、ほとんど重なりあうようにして、床をのべるのだった。恭一はこれまで、自分の家に寝るかぎり、一晩だってお祖母さんと部屋をべつにしたことがなく、いつも俊三と三人で座敷に枕をならべる習慣だったが、今度次郎が帰って来ると、さっそく二人で相談して、勉強の都合を理由に、そんなことにきめたのだった。
 むろん、それがお祖母さんに気に入るはずがなかった。お祖母さんにしてみると恭一が自分の遊ぶ時間もないようにして、次郎の勉強の相手になっているのが、だいいち心外にたえなかった。もうそれだけで、恭一がひどく馬鹿をみているように思えたし、それに恭一の親切をいいことにして、あくまでも図にのっている次郎が、小面憎《こづらにく》くてならなかった。次郎のため少しでも恭一が犠牲になるなんて、全くあるまじきことだ、というのが、お祖母さんの永い間の信念みたようになっていたのである。だから、恭一が寝間を二階にかえる話をし出すと、お祖母さんは、とんでもないというような顔をして言った。
「馬鹿になるのもいい加減におしよ。お前、そんなふうだと、次郎にどこまでも甘く見られて、今にお尻まで拭《ふ》かされるよ。」
 恭一は、そう言われて默りこんだ。生れつき繊細《せんさい》な彼の神経は、お祖母さんのそんな物の言い方を、正面からはねかえすことが出来なかったのである。
「だって、どうせ次郎ちゃんは座敷にいっしょに寝られないんでしょう。狭いんだもの。」
 恭一はしばらく考えたあと、やっと自分の言うことが見つかったらしかった。
「そりゃあ寝られないとも、八畳に四人はね。」
「すると、次郎ちゃんはどこに寝るんです。」
「そんなこと、お前が心配しなくてもいいじゃないかね。次郎はどこにだってねるよ。」
「やっぱり父さんとこにねるんですか?」
「それが好きなら、それでもいいさ。」
「でも、僕と俊ちゃんがいっしょで、次郎もやんがべつになるのは、いけないと思うんです。」
「それがどうしていけないのかい、どうせ三人のうち一人はべつになるんだろう。」
 お祖母さんは、兄弟三人をいっしょにして、自分がべつの部屋にねることなんか、ちっとも思いつかないらしい。
「一人だけ別になるんなら、僕がならなくちゃあ。」
 恭一はいつになく吐き出すような調子で言った。
「お前、どうしてそんなことをお言いだい。お祖母さんといっしょのお部屋に寝るのが、いやにでもなったのかい。」
「ううん、そんなことありません。だって、次郎ちゃんより僕の方が年上なんだもの。」
「まあ、まあ、急にお兄さんにおなりだこと。」
 と、お祖母さんは、冗談《じょうだん》のように言って笑ったが、すぐまた真顔《まがお》になって、
「そりゃあね、恭一、年ではお前の方が兄さんにちがいないともさ。だけど、何もかも兄さんだと思ったら大間違いだよ。次郎には、そりゃあお前たちの思いもよらない悪智恵があるんだからね。いつかも、ほら、お前、うまいこと万年筆を捲《ま》きあげられたんだろう。うっかりあれの手にのって、二人っきりで二階に寝たりしていると、ろくなことはないよ。」
「お祖母さん――」
 と、恭一はもう泣きそうな顔になって、
「万年筆は次郎ちゃんにねだられたんじゃないんです。僕、いらないからやったんです。二階に寝るのだって、僕の方から言い出したんです。次郎ちゃんはかわいそうです。ずるくなんかないんです。お祖母さんは、どうして次郎ちゃんがそんなにきらいですか。」
 恭一も、もう間もなく中学の三年だった。彼は、精いっぱいにその正義感を唇にほとばしらせながら、青ざめた頬を涙でぬらしていた。
 これには、さすがに、お祖母さんもすっかりあ
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