、また、一方では、何ひとついい条件なしにお芳を迎えなければならない家庭の事情を思って、いよいよ気が重くなるのであった。
六 卑怯者
三月にはいると、まもなく中学校の入学試験だった。次郎たちの学校からは、昨年不合格だった源次たちの仲間を加えて、都合十五名が願書を提出した。
毎年の例で、みんなは一名の先生につきそわれて、試験のはじまる二日まえから、西福寺という町のお寺に合宿することになった。二日もまえから合宿をはじめるのは、町の地理や、中学校の建物の様子などに、まえもって、いくらかでも慣れさしておくことが、みんなの試験度胸をつくるのに必要だと思われたからである。しかし、みんなとしては、そんなことよりも、一日も早く賑やかな町に行き、そこでいっしょに寝泊り出来るということが、ただわけもなく楽しかった。――一般にこの辺の児童は、入学試験に対しては割合にのんきで、競争意識で神経をいら立たせる、といったようなことはあまりなかったのである。
附添いの先生は、次郎や竜一たちを四年から受持ってくれていた権田原先生だった。
この先生は、児童たちが何かいたずらでもやっているのを見つけると、その大きな眼をむいて拳固《げんこ》をふりかざしておきながら、すぐその手でやさしく児童たちの頭をなで、「これから気をつけるんだぞ。」と言って、それっきり、けろりとなるといったふうな飄然《ひょうぜん》としたなかに、いかにも温情のあふれている先生で、年歳《とし》はもう四十を越していたが、師範を出ていないせいか、学校での席次は、まだ四席かそこいらのところだった。毛むくじゃらな、まんまるい顔を、羊羹色《ようかんいろ》の制服の上にとぼけたようにのっけて、天井を見ながらのっそりと教壇に上って来るくせがあったが、その様子が、不思議に児童たちの気持を真面目にもし、またなごやかにもするのだった。
この先生が附添いときまってからは、合宿はみんなにとっていよいよ輝かしいものに思われ、彼らはよるとさわるとその話をして、町に行く日を首をながくして待っていた。
ただひとり楽しめなかったのは次郎だった。彼は、むろん、合宿に加わりたいのが精いっぱいで、町に自分の家があるのがうらめしい気にさえなり、
(先生の方で、みんなを合宿させることにきめてくれるといいが――)
と、心のうちで祈ったりしていた。しかし、権田原先生は、自分が附添いときまった日に、みんなを集めて合宿に必要な諸注意や、費用のことなどを話したあと、次郎の頭をなでながら言った。
「本田は合宿の面倒がなくていいね。だが、試験の時間におくれんように気をつけるんだぞ。いずれ先生が君のうちに寄って、よく打合わせておくが。」
次郎はがっかりした。それでも、彼は、正木のお祖父さんが、「源次は本田にお世話になるより、合宿の方で先生に面倒を見ていただく方が安心じゃ」と言ったのを知っていたので、自分から願いさえすれば、源次と同じにしてもらえそうな気もして、それを言い出す機会をねらっていた。しかしそんな機会はとうとう見つからなかった。お祖父さんも、お祖母さんも、試験の話にさえなると、「このごろは恭一が、次郎をきっと試験にうかるようにしてやると、張り切って待っているそうだ。」といったような話をして、次郎を励ますことばかりに熱心になるのだった。
次郎は、合宿が駄目なら、源次か竜一のうち、せめて一人だけでも町の自分の家に泊ってくれればいいと思って、そっと二人にそれをすすめてみだ。源次は、しかし、即座に「いやだ」と答えた。そして、
「お祖父さんだって、僕は先生のそばにいる方がいいって言ってるじゃないか。」
と、いかにもお祖父さんが自分の肩をもって、そんなことを言いでもしたかのような口振りだった。
竜一の方は、次郎の家に泊るのが、まんざらいやでもなさそうだったが、その場でははっきりした返事もせず、翌日になって、
「うちでいけないって言うよ。」
と、気の毒そうにことわった。
次郎は、そうなると、いよいよみんなにのけ者にでもされたような気になり、幼いころから本田の家で味わって来た不快な感情が、どこからともなく甦って来て、誰かが合宿の話でもし出すと、つい荒っぽいことを言ったり、皮肉な態度に出たりしたくなるのだった。――過去の深刻な運命というものは、それに似た新しい小さな運命をあざけるとばかりは限らない。それは、ちょうど骨の髄《ずい》をいためた古疵と同じように、ちょっとした寒さにもうずき出すことがあるものなのである。
町に出て行くのは、次郎もみんなといっしょだった。その日、みんなは、いつもの朝礼の時間に学校にあつまり、全校児童のまえで、校長先生からの激励の辞をうけ、万歳の声におくられて、権田原先生を先頭に、寒い春風のなかを粛々《しゅくしゅく
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