こえた。次郎はごくりと固唾《かたず》をのんだ。
「この話は、次郎本位に考えるだけでいい、というわけでもありませんし……」
「ご尤も。」
とお祖父さんが言った。俊亮は少し声を落して、
「何しろ、ご存じの通りの内輪の事情ですから、誰に来てもらったところで、すいぶんつらいことがあるだろうと思います。」
「それはいたし方ない。先方も初婚というわけではないし、それに、さっきから話しましたような事情じゃで、とくと話せば、大ていのことは我慢する気になるだろうと思いますがな。」
「しかし、それも程度がありますのでね。それに、万一来て下さる方が、次郎の方にだけ親しみが出来るというようになりますと、いよいよ面倒になりまして、次郎のためだと思ったことが、かえって悪い結果にならんとも限りませんし……」
「なるほど、そこいらはよほど気をつけんとなりますまい。じゃが、かげになって次郎をかばってくれる女が、一人は居りませんとな。」
しばらく沈默がつづいた。次郎はただ頭がもやもやしていた。父にどう返事をしてもらいたいのか、それさえ自分でもわからなかった。第二の母、そんなことは、まだこれまでに彼が考えてみようとしたことさえなかったことなのである。
「とにかく、会ってやって下さるぶんには、差支えございませんでしょうね。」
お祖母さんの声である。次郎は固唾をのんだ。
「ええ、それはかまいません。どうせ今日は、おそくなれば夜になる肚《はら》であがったんですから。」
次郎は、失望に似た感じと、好奇心に似た感じとを、同時に味わった。
「次郎ちゃん、――何してんだい。――餅が焼けたよう――。」
誠吉が土間の方から呼んでいる声がきこえた。彼は、はっとして、急いで部屋を出た。
蝋小屋に行ってみると、もう餅がふくらんで、熱い息を吹き出していた。蓆《むしろ》のうえには、醤油と黒砂糖を容れた皿が二つ置かれていた。しかし、彼には、もうほとんど食慾がなかった。彼は、蒸炉にもえさかっている火の勢いで、自分の頭がぐるぐる回転しているような感じだった。
間もなくお延が、彼らを午飯に呼びに来た。
次郎は、しかし、ちゃぶ台のまえに坐っても、お延が盆をもって座敷に往ったり来たりするのに気をとられて、たった一杯しかたべなかった。従兄弟たちは、それをべつに変だとも思わなかったらしい。――彼らの腹も、蝋小屋で食った薩摩芋と餅とで、もう相当にふくらんでいたのである。
次郎は食事をすますと、一人で二階に行って、お浜に手紙を書きはじめた。
彼は先ず、町から正木に帰って来たことを知らせ、それから、さっきの座敷の話について何か書くつもりだった。しかし、彼はそれをどう書いていいのか、さっぱり見当がつかなかった。で、町で一度父に映画を見せてもらったことや、恭一に万年筆をもらったことや、父といっしょにお墓詣りをしたことなどを、多少の感傷をまじえて書いた。本田のお祖母さんのことは、何とも書かなかった。書きたくなかったのである。正木のお祖父さんや、お祖母さんについては、何かちょっとでも書いておきたいと思ったが、書こうとすると、ついさっきの話がひっかかって、筆が進まなかった。で、とうとうそれを思いきって、最後に、例のとおり、「では乳母や、からだに気をつけてください」と書き、すぐ封筒に入れて封をしてしまった。
彼は、しかし、何だか物足りなくて、それからしばらくは、ぽかんと机に頬杖をついていた。
そのうちに、継母を持っている数人の学校友達の顔が、ひとりでに思い出されて来た。そのある者は彼の非常にきらいな子供だったし、またある者は彼がかなり親しんでいる子供だった。彼は、しかし、それらの顔を思い浮かべたために、一層不愉快にもならなければ、慰められもしなかった。
彼は、そのうちに、万年筆のことを思い出して、カバンの中からそれを取り出した。そしてキャップをとって、ためつすかしつ眺めはじめた。それは吸上ポンプ式だったが、まだインキが入れてなかった。彼は町で、恭一がそれに水を入れたり出したりしたのを見ていたので、どうすればインキがはいるのかがわかっていた。彼は部屋を見まわして、久男の机の上にインキ壺を見つけると、すぐそこに行ってインキを入れた。そして、自分の机のところに持って来ると、それでお浜に出す手紙の上がきを書いた。筆や鉛筆で書くのとちがって非常に書きづらかった。ペン先に紙がひっかかって、インキが点々と散った。それでも彼は、お浜あての手紙に、兄にもらった万年筆をはじめて使ったのが心からうれしかった。そして何度も封筒をひっくりかえしては、青みがかった文字の色をながめた。
彼はそれでいくらか気が軽くなって、階下《した》におりた。そして従兄弟たちを探すために、蝋小屋の方に行きかけた。
すると門口から、背《せ》の馬
前へ
次へ
全77ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング