は、しかし、実は不思議でも何でもなかった。彼は、彼自身ではっきり意識していなかったとしても、やはり、心のどこかで、まだ万年筆のことを思いつづけていたにちがいなかったのである。いや、万年筆をとおして、たまたま数時間まえに示された肉親の兄の愛が、久しく彼の血管の中に凍りついていた本能の流れを溶かして、従兄弟たちの好意を、その流の上に、木の葉でも浮かすように、浮かしはじめていたにちがいなかったのである。
 血は水よりも濃い。そして濃い血は淡い血よりも人の心を濃くする。次郎が今日従兄弟たちの愛をいつも程に味わい得なかったとしても、それは決して彼の軽薄さを示すものではなかったのだ。
 だが、実をいうと、次郎の気持を従兄弟たちから引きはなしていた理由は、ただそれだけなのではなかった。彼の心の動きはいつも単純ではない。生れた瞬間から、八方に気をつかうように運命づけられて来た彼は、焼芋を頬張ったり、おしゃべりをしたりしている最中にも、やはり、老夫婦がせき立てるように父を座敷につれて行ったことを忘れてはいなかったのである。
 彼は、焼芋を三つ四つ食い終ったころ、ふと思い出したように言った。
「僕、まだお祖父さんにご挨拶してないんだよ。」
 これは、むろん嘘だった。彼はさっき茶の間にあがるとすぐ、まっさきにお祖父さんに挨拶をすましていたのである。
 彼は、言ってしまって嫌な気がした。このごろめったに小細工をやらなくなっている彼ではあったが、何かの拍子に、われ知らずそれが出る。そしていつも後悔する。後悔はするが、すなおに小細工をひっこめる気にはなかなかなれない。その結果、一層まずい小細工をやって、あとでは手も足も出なくなってしまうことが多い。そんな時にかぎって、彼には母やお浜の顔を思い浮かべる余裕がない。それを思い浮かべるのは、たいてい何もかもすんでしまったあと、ひとりで、にがい後悔のあと味を噛みしめている時なのである。
「じゃあ、すぐ行っておいでよ。」
 久男が年長者らしく言った。むろん次郎がどんな気持でいるのか、それにはまるで気がついていなかったらしい。
「すぐまた、ここにおいでよ。これから餅を焼くんだから。」
 源次が芋の皮を炉に投げこみながら言った。
 次郎は変にそぐわない気持で立ち上った。すると誠吉が、
「餅なら、僕がとって来らあ。……次郎ちゃん行こう。」
 と、次郎と肩をくみそうにした。次郎の手は、しかし、ぶらさがったままだった。
 蝋小屋を出て、母屋の土間にはいると、誠吉は、台所で午飯の支度をしていたお延に言った。
「母さん、源ちゃんが餅を下さいって、次郎ちゃんと、蝋小屋で焼いて食べるんだってさ。」
 次郎には、誠吉のそうした卑屈な言葉が、いまはとくべついやに聞えた。
「もうすぐお午飯《ひる》だのに。……でも、少しならもっておいでよ。」
 お延は、そう言って、次郎の方をちらと見た。次郎には、それもいい気持ではなかった。
 彼は茶の間をぬけて、座敷の次の間まで行ったが、そこで立ちすくんでしまった。襖のむこうからは、ひそひそと話声がきこえるが、落ちついて立ち聞きする気にはもうなれない。さればといって、思いきって座敷にはいって行く勇気も出ない。結局、従兄弟たちに言った嘘をほんとうらしくするために、わざわざここまでやって来たに過ぎないような結果になってしまったのである。
 彼はすぐ次の間から引きかえそうとした。が、もう一度蝋小屋に行って、いかにもお祖父さんに挨拶をして来たような顔をするのがいやだったので、ちょっと思案していた。
 すると、急に座敷の話声が、高くなった。
「いや、先方はまだ何も知りませんのじゃ。」
 お祖父さんの声である。つづいてお祖母さんの声がきこえる。
「先方では、あんたが、きょうこちらにお見えのことも知らないでいるはずでございますよ。きょうは私どもの急な思いつきで、顔だけでもあんたに見ておいてもらったら、と思いましてね。幸い先方が訪ねて来るというものですから。」
「なあに、いけなけりゃ、いけないで、ちっとも構いませんのじゃ。じゃが、仏に対する遠慮なら、もう無用にしてもらいましょう。ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
 次郎はもう動けなくなった。
「そりゃあ、気が利かないうえに、学校も小学校きりでございますから、何かと足りないがちだろうとは思います。ただすなおなのが取柄でございましてね。」
「生半可《なまはんか》に気が利いたり、学問があったりするのは、こういう場合には、かえってよくないものじゃ。ことに、次郎にはやさしいのが何よりじゃでのう。」
 次郎はいつの間にか、襖の方に二三歩近づいていた。彼にはもう、話の内容がおぼろげながらわかりかけて来たのである。
「しかし――」
 と、はじめて俊亮の声がき
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