ゃないか。」
「そうかなあ。」
「次郎ちゃんは、そう思わなかった?」
「…………」
 次郎は眼を伏せた。そして、亀の子煎餅を指先で砕《くだ》いては、鉢におとした。涙がこみあげて来るような気持だったが、彼はやっとそれをこらえた。
「僕、あんな人、きらいさ。」
 恭一は吐《は》き出すように言って、急に煎餅をぼりぼり噛み出した。
 次郎は、しかし、すぐ恭一に合槌をうつ気にはなれなかった。彼には、何かしら未練があった。さっき立ちがけに見たお芳の眼の表情も思い出されていた。
「じゃあ、恭ちゃんも、可愛がって貰えないの?」
 次郎は妙に用心深い眼をしてたずねたが、それには、かなり複雑《ふくざつ》な気持がこめられていた。恭一が可愛がられていないことは、彼としては安心なことのようにも思えたし、また、それだけお芳の愛が俊三に集中されていることのようにも思えたのである。
「僕?」
 と恭一は、いかにも冷たい微笑を浮かべて、
「僕は誰よりも大事にしてもらうんだよ。僕、それがいやなんさ。」
 次郎には、その意味がわからなかった。しかし、恭一はすぐつづけて言った。
「母さんはね、次郎ちゃん、お祖母さんの言うとおりなんだよ。僕を大事にするんだって、俊ちゃんを可愛がるんだって、みんなお祖母さんがいろいろ言うからさ。」
 次郎は、そう聞くと、かえって救われたような気がした。そして、さっきのお芳の眼の表情を、もう一度思い浮かべた。
「じゃあ、母さんは、俊ちゃんをほんとうに可愛がっているんじゃないの。」
 彼は、彼がふれるのを最も恐れていた、しかし、ふれないではいられなかったものに、巧みにふれる機会をとらえた。
「そりゃあ、ほんとうに可愛がっているかも知れんさ。だけど俊ちゃんを可愛がるからって、次郎ちゃんが久しぶりで来たのに知らん顔しているなんて、ひどいと思うよ。次郎ちゃんが可愛いなら、お祖母さんの前だって何だって、あたりまえに可愛がりゃあいいじゃないか。僕、ごまかすのが大きらいさ。」
 次郎は恭一の言葉がうれしいというよりは、もどかしい気がした。彼は、お芳がほんとうに俊三を愛して自分を疎《うと》んじているのか、それとも、単にお祖母さんの手前そんなふうにみせかけているのか、それをはっきり言ってもらいたかったのである。
 彼は、自分の俊三に対する嫉妬《しっと》を恭一に覚《さと》られないで、それをどうたずねたらいいかに苦心した。
「俊ちゃんは、あれからすぐ母さんが好きになったんかい。」
「好きになったんかどうか知らないけど、すぐ、わがまま言い出したよ。おおかた、父さんが、わがまま言ってもいいって言ったからだろう?」
「わがまま言っても、母さん怒らない?」
「ちっとも怒らないよ。わがまま言うと、よけい可愛ゆくなるんだってさ。」
 次郎の眼は異様に光った。彼は、自分がお芳に対して出来るだけ従順《じゅうじゅん》であろうとつとめていた一ヵ月まえまでの生活を思い起して、何かくやしいような気がした。彼はさぐるような眼をして、
「じゃあ、恭ちゃんもわがまま言えばいいのに。」
「馬鹿言ってらあ。僕、そんなこと、大嫌いだい。」
 恭一は、いかにも不快そうに答えた。次郎には、それは意外だった。自分が愛せられることだけに夢中になっていた彼には、恭一の潔癖《けっぺき》な気分がよくのみこめなかったのである。
「ねえ、次郎ちゃん――」
 と、恭一はしばらくして、
「僕、やっぱり、母さんなんか来ない方がよかったと思うよ。」
「どうして?」
「みんなが正直でなくなるからさ。母さんが来てから、みんな自分で考えてないことを、言ったり、したりするようになったんだよ。」
「母さんは、そんなにいけない人かなあ。」
「母さんがいけないんじゃないかも知れんさ。だけど、母さんが来るまでは、みんなもっと正直だったんじゃないか。このごろ父さんだって、嘘をつくことが多いぜ。お祖母さんなんか、しょっちゅう嘘ばかりだよ。」
 恭一は食ってかかるような調子だった。
「恭ちゃんも嘘をつく?」
「僕は嘘なんかつくもんか。僕、何でも思ったとおりに言ってやるんだ。だから、みんな困るんさ。困ったって、平気だよ。」
 次郎には家の中の様子が何もかも想像がつくような気がした。しかし、今の場合、彼にとって大事なのは、そんなことよりも、俊三とお芳との間が実際はどうだかを、はっきり知ることであった。
「じゃあ、俊ちゃんは?」
「俊ちゃん?」
 と、恭一はちょっと考えてから、
「俊ちゃんは僕にはよくわかんないや。母さんにわがまま言うのは、わざとじゃないだろうと思うけれど。」
「じゃあ、母さんが俊ちゃんを可愛がるのも、嘘じゃないんだろう。」
 恭一はまた考えた。そして、
「それも、僕には、はっきりわかんないさ。」
 次郎は物足りなさそうな顔をして、
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