る。そのかあっ[#「かあっ」に傍点]という声がうまく出るたびに、わしが、わざとわしの面を打たせてやりますと、次郎君いよいよ調子づきましてな。」
「へえ――」
「次郎君は案外素直な子供ですぞ。」
俊亮は、眼をぱちくりさせた。
「素直じゃから、かあっ[#「かあっ」に傍点]と気合をかけさえすれば、面がとれると思いこんで、一所懸命に打込んでまいりますのじゃ。」
「なるほど。」
「それで、うんと汗をかきましてな、それからいっしょに風呂に入りましたのじゃ。すると、次郎君、風呂小屋の中でも、ときどき思い出しては両手をふりあげて打込みの真似をする。相変らずかあっ[#「かあっ」に傍点]、かあっ[#「かあっ」に傍点]と気合をかけましてな。」
「へえ――」
「そこをすかさず、わしが、小声でさん[#「さん」に傍点]とあとをつけましたのじゃ、そのたんびに。」
「なるほど。」
俊亮は、しかし、まだちっとも、なるほどだという顔をしていない。
「次郎君も、最初のうちはそれに気がつかないでいたようじゃが、何度もやっているうちに、けげんそうな眼をしてわしの顔を見ましてな。それから、しばらく突っ立って何か考えるようなふうでいましたが、急に、ああそうか、と言って恥ずかしそうに横を向きましたわい。」
「いや、なるほど。」と、俊亮は笑いながら、
「それで、風呂を出たあと、うまく母さんと言いましたか。」
「いいや、なかなか言いません。そりゃあ、そう急に言うわけがありませんわい。わしも、そんなに急に言わせるつもりもありませんでしてな。わしは、しかし、次郎君は剣道が好きじゃと見込みまして、それに望みをかけましたのじゃ。」
「はあ――」
「剣道が好きじゃとすると、またここに来て稽古がしてみたくなる。稽古がしてみたくなると、きっとかあっ[#「かあっ」に傍点]という懸声のことを思い出す。ついでに風呂小屋でのさん[#「さん」に傍点]を思い出す。さあ、そうなると、剣道をよすか、思いきって母さんと言うか、二つに一つじゃが、そこは次郎君が自分で考えることになりますわい。それも、次郎君が、母さんと呼ぶのを心から嫌っておれば話になりませんがな。」
「なるほど。」
俊亮は、今度はいくぶん、なるほどという顔をした。
「ところで、どうです。この葉書は? わしもこんなに早く計画が図に当るとは思いませんでしたわい。はつはっはっ。」
運
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