「もっとも、これはお芳ひとりではどうにもならんことじゃで、次郎君の心がけがよいからでもありますのじゃ。」
「いや、あいつ、まったく一筋縄《ひとすじなわ》では手におえん子供でして――」
「そう言えば、なるほどそういうところもありますな。じゃが、お芳との仲は、案外うまくいっとりますぞ。そこは、わしがちゃんと睨《にら》んでおきましたのじゃ。お芳ののろまも、こうなると、まんざら捨てたものではありませんな。はっはっはっ。」
 俊亮は挨拶に困っている。
「ところで、わしがひとつ気になりましたのは、次郎君の口から、まだどうしても、母さんという言葉が出ないことでしたのじゃ。あんたは、それはまだ早過ぎる、とおっしゃるかも知れん。じゃが、こんなことは、はじめが大事でしてな。はじめに言いそびれると、あとでは、いよいよむずかしくなりますのじゃ。」
「ごもっともです。」
「それも、いっそ、そんなことが気にならなければ、何でもないようなものじゃが、なかなかそうは行きませんのでな。母さんと呼べないばかりに、さきざきちょっとした用事を言うにも、奥歯に物がはさまったような言葉づかいをしなけりゃならん。一生そんな気まずい思いをしちゃあ、ばかばかしい話ですよ。」
「ごもっとも。」
「そりゃあ、母でもないものを母と呼ばせようとするのが、そもそもの無理じゃで、そんな無理をしないですめば、それにこしたことはない。じゃが、必要があって無理をするからには、思いきりよくやる方がよいと思いますのじゃ。無理というやつは、外科手術のようなもので、用心しすぎると、かえってしくじりますのでな。」
「ごもっとも。」
 俊亮は、ただ「ごもっとも」をくりかえしている。そのうちに、運平老は、次郎の葉書のことなど忘れてしまったかのように、家じゅうにひびきわたるような声で、ひとくさり「なさぬ仲論」を弁じ立てた。
 それによると、なさぬ仲はあくまでもなさぬ仲で、自然の親子ではない。自然の親子でないものに、自然の親子と同じような気持になれと求めるのは、そもそも間違いである。そんな間違った要求をするから、何でもないことまでが、ややこしくなって、かえって二人の仲が他人より浅ましいものになる。それは、ごまかそうとしてもごまかせないものを、強いてごまかそうとして、人間が不純になるからである。何よりもいけないのは、この不純だ。人間が不純でさえなけれ
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