そうにした。次郎の手は、しかし、ぶらさがったままだった。
蝋小屋を出て、母屋の土間にはいると、誠吉は、台所で午飯の支度をしていたお延に言った。
「母さん、源ちゃんが餅を下さいって、次郎ちゃんと、蝋小屋で焼いて食べるんだってさ。」
次郎には、誠吉のそうした卑屈な言葉が、いまはとくべついやに聞えた。
「もうすぐお午飯《ひる》だのに。……でも、少しならもっておいでよ。」
お延は、そう言って、次郎の方をちらと見た。次郎には、それもいい気持ではなかった。
彼は茶の間をぬけて、座敷の次の間まで行ったが、そこで立ちすくんでしまった。襖のむこうからは、ひそひそと話声がきこえるが、落ちついて立ち聞きする気にはもうなれない。さればといって、思いきって座敷にはいって行く勇気も出ない。結局、従兄弟たちに言った嘘をほんとうらしくするために、わざわざここまでやって来たに過ぎないような結果になってしまったのである。
彼はすぐ次の間から引きかえそうとした。が、もう一度蝋小屋に行って、いかにもお祖父さんに挨拶をして来たような顔をするのがいやだったので、ちょっと思案していた。
すると、急に座敷の話声が、高くなった。
「いや、先方はまだ何も知りませんのじゃ。」
お祖父さんの声である。つづいてお祖母さんの声がきこえる。
「先方では、あんたが、きょうこちらにお見えのことも知らないでいるはずでございますよ。きょうは私どもの急な思いつきで、顔だけでもあんたに見ておいてもらったら、と思いましてね。幸い先方が訪ねて来るというものですから。」
「なあに、いけなけりゃ、いけないで、ちっとも構いませんのじゃ。じゃが、仏に対する遠慮なら、もう無用にしてもらいましょう。ちっとでも次郎のためになることなら、仏も喜びましょうからな。」
次郎はもう動けなくなった。
「そりゃあ、気が利かないうえに、学校も小学校きりでございますから、何かと足りないがちだろうとは思います。ただすなおなのが取柄でございましてね。」
「生半可《なまはんか》に気が利いたり、学問があったりするのは、こういう場合には、かえってよくないものじゃ。ことに、次郎にはやさしいのが何よりじゃでのう。」
次郎はいつの間にか、襖の方に二三歩近づいていた。彼にはもう、話の内容がおぼろげながらわかりかけて来たのである。
「しかし――」
と、はじめて俊亮の声がき
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