し、数日来の憂鬱な気分が、それでいくらか拭《ぬぐ》われたような気がした。そして、母と入れちがいに正木に帰ってしまおうかと考えていたことも、いつの間にか忘れてしまっていた。

     *

 翌々晩の、俊亮とお芳との結婚式は、極めて簡素《かんそ》だった。お芳は式服も着ず、紋のついた羽織をひっかけて、正木夫婦と青木医師――竜一の父――とに伴われてやって来た。ほとんど同じ時刻に大巻夫婦も来た。それだけの顔がそろうと、みんなが狭い八畳の座敷に座蒲団を重ねあうようにして坐り、青木医師の肝煎《きもいり》で簡略《かんりゃく》に盃事《さかすきごと》をすました。
 恭一たち三人にお芳の盃をまわしながら、青木医師は言った。
「これが今日の一番大事な盃です。」
 恭一は、その盃をいやに固《かた》くなってうけた。次郎には、その様子がいかにも可笑《おか》しく感じられた。盃事が終ると、すぐ大人だけの酒宴になった。正木のお祖母さんに促されて、お芳はすぐお酌《しゃく》やお給仕《きゅうじ》をはじめ、茶の間や台所にも何度かやって来た。恭一たちはそのたびに彼女の顔に注意したが、彼女は大きな笑くぼを見せるだけで、一度も口をきかなかった。
 座敷では、大巻運平老がひとりで座を賑わした。老はここでもまたお芳の漬物上手なことを話し出したが、そのあとで、
「じゃが、本人は少々塩気が足りませんのでな。これはお母さんにこれから程よくもんでいただかなければなりますまい。はっはっはっ。」
 と、例の張りきった声で笑った。
 運平老は、座敷を賑やかにするだけでなく、茶の間にいた恭一たちの気持まで浮き浮きさした。三人はあとでは襖のかげから中をのぞいていたが、
「ね。似てるだろう。天狗の面に。」
 と次郎が言うと、
「うん、そっくりだい。」
 と俊三が答え、恭一までが、
「あれでもう少し鼻が高いと、いよいよ本物だぜ。」
 などと囁《ささや》いたりした。
 十時頃になると、お芳だけを残し、みんな人力車をつらねて帰っていった。運平老は、わかれぎわに、子供たち三人の頭をかわるがわるなでながら、言った。
「この祖父さんが剣道を教えてやるから、三人そろって、母さんといっしょにやって来るんじゃぞ。」
 みんなを見送ったあとで、お芳は、お祖母さんと子供たち三人に、それぞれ持参のお土産《みやげ》を差し出した。お祖母さんには、大島か何かの反物
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