はしゃぎ出した。そうなると、もう飛石も地べたもなかった。彼らは跣足《はだし》でめちゃくちゃに走りまわった。
「次郎! 次郎!」
 二三十分もたったころ、俊亮の声が縁側からきこえた。そのまるまるした体が、室内の燈火を背にうけて、黒々と立っている。次郎は、飛石に足のうらをこすりこすり父のそばに行った。父は縁側に腰をおろしながら言った。
「どうだい、父さんたちは、もう明日からみんな町の方に行くんだが、お前も一緒に行きたいか。それとも、ここにいたいのか。お前のすきなようにしていいんだから、思うとおりに言ってごらん。」
 座敷の方から、みんなの視線が、一せいに次郎に注がれた。次郎は返事に困った。
 彼は、これまで、どうせ自分はこちらに残されるものだと決めていたし、またその方を喜んでもいたのであるが、いざとなると、変に物淋しい気持が、胸の奥からこみあげて来る。それは、父に対する愛着からだとばかりはいえない。みんなが打ち揃って出て行くのに、自分だけあとに残されるということが、予期しなかったいやな気持に、彼を誘いこんでいくのである。それに、さっきのしんみりした母の言葉が、妙に彼の頭にこびりついて、彼の心を一層悲しくさせた。出来るなら、一緒について行きたい、とも思う。
 しかし、魅力《みりょく》は何といっても正木の家にある。ついては行きたいが、いざ正木を離れると思うと、温かいふとんの中から急に冷たい畳の上に放り出されるような気がする。せめて本田のお祖母さんさえいなけれは、と思うが、現にその蛇のような眼が、自分を見つめている。やっぱり、ついて行くのはいやだ。
「どうだい、一緒に行くか。」
「…………」
「やっぱり、ここにいたいのか。」
「…………」
「どうした? 默ってちゃわからんが。」
「…………」
「母さんは、お前をつれて行きたいって言うんだ。」
 次郎は、伏せていた眼を、ちょっとあげて父を見た。しかし、返事はしない。
「ところで、お祖父さんは、お前をこちらにおきたい、とおっしゃるんだ。」
 次郎は、正木の老人の方をちらりと見た。が、またすぐ眼を伏せてしまった。
「困ったな。そうぐずぐずじゃあ。……だが、まあいい。今夜は、みんなこちらに泊るんだから、明日の朝までによく考えておくんだ。いいか、お前の好きなようにしていいんだからな。」
 俊亮は、そう言って縁側を去ろうとした。すると、次郎が、
「父さんは、どっちがいい?」
 俊亮は、予期しなかった問に、ちょっとまごついた。そして、しばらく次郎の眼を見つめていたが、
「父さんか。父さんはどうでもいい。次郎の好きなようにするのが一番いいと思っているんだ。」
 次郎は、首をかしげて、右手の指先で、縁板をこすりはじめた。十秒あまりの沈默がつづいた。蚊が一疋、弱々しい声を立てて、次郎の耳元で鳴いた。次郎は、手をふってそれを追ったが、すぐまたその手で、縁板をこすりはじめた。
「次郎や――」と、その時、本田のお祖母さんが、少し膝を乗り出して、声をかけた。
「私も、お母さんと同じ考えなんだよ。そりゃあ、もう、こちら様のご親切は、よくわかっていますが、何といっても、兄弟三人そろっていて貰う方が、私も気が安まるのでね。一人残して置いたんでは、夜もおちおち眠れまいと思うのだよ。」
 みんなの次郎を見ていた眼が、気まずそうに畳の上に落ちた。次郎は、じろりと本田のお祖母さんを見たが、すぐその眼で俊亮を見あげながら、きっぱりと言った。
「父さん、僕、ここに残るよ。」
 誰も、しばらくは、一語も発しなかった。俊亮も、少しあきれたように、次郎の顔を見ていたが急にわれにかえって、
「そうか。うむ。それでいい。それでいいんだ。……なあに、町までは、たった四里しかないんだから、わけはない。土曜から泊りに行くんだな。」
 正木のお祖父さんは、その場の気まずい空気をふり払うように、つと立って縁に出た。
「おお、いい月じゃ、お茶でも入れかえて貰おうかな。」
 正木のお祖母さんは、顔を畳にすりつけるようにして、座敷から空をのぞいていたが、
「そうそう。今夜は、ちょうど十五夜でございましたよ。」
「あら。すると次郎の誕生日ですわ。あたし、かまけていてすっかり忘れていましたの。」
 と、お民がいそいそと立ち上って、月を見た。すると、本田のお祖母さんが、
「私、気づかないでもなかったんだがね。こちら様で、そんなことを言い出すものでもないと思って。」
 それでまた、あたりが変に気まずくなった。次郎は、しかし、もうその時にはそこにはいなかった。彼は、彼が物ごころづいて以来、しばしば聞かされてきた、「八月十五夜」が、ちょうど今夜だということなど、まるで思いつきもしないで、遠慮深そうにしている恭一や俊三を尻目にかけながら、わが物顔に庭をあちらこちらと飛びまわっていた。

    三一 新生活

 翌日は本田の一家が出発する日だったにも拘《かかわ》らず、次郎は、平気で学校に行った。みんなも、いっそその方がよかろうというので、強いて休ませようともしなかった。帰って来てみんなの姿が見えなかったら、きっと淋しがるだろうと、正木では気をつかっていたが、別にそんなふうにも見えなかった。
 それ以来、彼の日々は割合平和に過ぎた。気持がのびのびとなるにつれて、喧嘩をしたりすることも、割合に少なくなった。
 土曜から日曜にかけて、正木のお祖父さんや、、お祖母さんにつれられて、おりおり本田の家にも訪ねて行った。しかし、彼が帰りをしぶるようなこととは一度だってなかった。ただ、町の賑やかさは、彼にとって新しい刺戟だった。――町は、人口三四万の、古い城下町だったのである。
 俊亮夫婦は、この町の、割合賑やかな通りに、店を一軒借りて酒類の販売を始めていた。店は間口も相当に広く、菰《こも》かぶりや、いろいろの美しいレッテルを貼《は》った瓶などを、沢山ならべてあって、次郎の眼には眩《まば》ゆいように感じられたが、奥は、以前の家とは比べものにならない、狭い、汚ならしい部屋ばかりだった。恭一と俊三とが机を並べている部屋は、ちょうど店の二階になっていた。そこは物置同様で、鉄格子の小窓がたった一つあいているきりだった。庭もあるにはあった。しかし、それは、隣家の苔だらけの土蔵で囲まれた、ほんの五六坪ほどのもので、そこからは、湿っぽい土の匂いが、たえず室内に流れて来た。次郎は、その匂いをかぐと、すぐ滅入りそうな気になるのだった。ことに、昼間でも真っ暗な、狭くるしい便所に行かなければならないのが、何よりもいやだった。正木の家でなら、もっと明るい、ゆとりのある便所がいくつもあったし、それに小用ぐらいなら、自由に野天で放つことも出来たのである。
 このような陰気な家の中で、顔を合わせる本田のお祖母さんが、次郎にとって、いよいよ不愉快な存在になって来たことは、言うまでもない。家が手狭なだけにお祖母さんの言うこと、することが、始終彼の頭を刺戟した。一緒に食卓につくと、どんな好きなものでも、気持よく腹に納まらないような気がするのだった。
 母の方は、しかし、訪ねるたびに、次第にやさしくなっていくように感じられた。気のせいかうす暗い部屋の中で見る母の顔に、何かしら、しっとりしたものが流れていて、それがそろそろと彼の心にせまって来るのだった。彼女は、時として、絵本や、美しい箱入の学用品などを買って、町はずれまで、彼の帰りを見送ってくれることがあったが、そんな時には、彼は、お浜に逢っているような感じにさえなるのだった。
 恭一や俊三に対する彼の気持は、別れる前から、いくらかずつよくなって来てはいたが、この頃、たまに逢うせいか、二人共、自然次郎本位に遊んでくれるので、そのたびごとに、親しみをまして来た。以前、彼が二人に対して抱いていた反抗心などは、もうこのごろでは全くなくなってしまった、三人一緒に町を歩いたりするのが、本田を訪ねる彼の楽しみの一つになって来たのである。
 だが、本田の家に対して彼が感ずる最も大きな魅力は、何といっても俊亮であった。俊亮は格別彼をちやほやするのでもなく、どうかすると、公園につれて行ってやる約束をしておきながら急用が出来たと言っては、彼をすっぽかしたりするようなこともあった。しかし、そんな時に、次郎は、淡い失望を感じこそすれ、欺かれたという気持になることなどは、一度だってなかった。彼は父に、「ほう、来たな。」と、ごくあっさり言葉をかけられたり、忙しい合間にも、ちょいちょい顔を覗かれたりするだけで、父の気持を十分に知ることが出来た。そして、もし自分に出来ることなら、恭一や俊三との遊びをやめても、父の仕事の手伝いをしてみたい、という気にさえなるのであった。で、町の魅力と、母や兄弟に対する親和の情とが、かなり強いものになっていたとしても、もし彼に、父に逢えるという大きな楽しみがなかったとしたら、彼はわざわざ四里もの道を、陰気臭い家までやって来て、祖母の顔を見る気には、まだなかなかなれなかったであろう。
 正木の家では、彼はほとんどあらゆる場合に自由であった。そこでは次郎の神経を刺戟するような、冷たい、とげとげした言葉など、全く聞かれなかった。むろん、祖父や祖母が、次郎に全然叱言を言わないわけではなかった。しかし、その叱言は、少しも彼の苦にならない叱言だった。それに、だい一、この家の生活には、いろいろの変化があった。櫨《はぜ》の実を俵に入れて沢山積んである大きな土蔵の中で、かくれんぼをしていると、山奥で洞穴の探検でもやっているような気分が味わえた。また、広い土間に払げられた[#「払げられた」はママ]櫨の実を、から竿で打ち落したり、蒸炉《むしろ》の焚口《たきぐち》に櫨滓《はぜかす》を放りこんだり、蝋油の固まったのを鉢からおこしたり、干場一面の真っ白な蝋粉に杉葉で打水をしたりする男衆や女衆にまじって、覚束《おぼつか》ない手伝いをするのも、誇らしい喜びだった。ことに「灰汁《あく》入れ」作業の手伝いは、次郎が学校を休んでもやりたいと思う仕事の一つだった。
 この作業の日には、附近の農家から、手のあいた女たちが凡そ二十人近くも手伝いに来た。その中には、婆さんも居れば、若い娘も居た。それらの人たちに、家内《うち》の婢《おんな》たちや、子供たちも交えて、三十数名のものが、土間に蓆をしいてずらりと二列に並ぶ。めいめいの前には、擂鉢型《すりばちがた》の浅い灰色の鉢に、一本の擂古木をそえたのが一つずつ置いてある。やがて、蝋油を溶かした黄褐色の液体が、一定の分量ずつ、男衆によって鉢に注がれる。注がれた人は、すぐ擂古木をとって、それを掻きまわさなければならない。掻きまわしているうちに、はじめさらさらした蝋油が、次第にさめて、白ちゃけたどろどろの液になって来る。適当の時期を見はからって、男衆はそれに一柄杓の灰汁《あく》を注ぎこむ。この時、まぜ手は油断してはならない。精一ぱいの速度で擂古木をまわさなければならないのである。灰汁が注がれると、鉢の中の蝋油は、忽ちのうちに真っ白に変り、同時に、擂古木が少々の力ではまわせないほど、ねばっこくなって来る。すると男衆は、すばやくその鉢を抱えて、予め水を打ってある他の鉢に、その中身をうつす。蝋はそこで徐々に固まっていって、鉋《かんな》をかけられ、干場に出されるのを待つのである。
 こうした作業が、毎日夜明けから日暮まで、二三日もつづけて繰りかえされる。その間には、婆さんたちの口から、腹をよらせるような面白い話も出れば、娘たちの喉から、美しい歌も流れる。食事以外には定まった休憩の時間はないが、一鉢あげるごとに、随意に渋茶も飲めるし、また薩摩芋《さつまいも》や時には牡丹餅《ぼたもち》などの御馳走も、勝手にいただけるのである。
 次郎もそうした中にまじって擂古木を廻すのであったが、それがちょうど日曜日ででもあると、彼は終日厭きもしないで坐り通すのであった。
「本田の坊ちゃんは、何て辛抱強いんでしょう。」
「全く珍しいお子さんだよ。」
「坊ちゃん、ちっと遊んでおいでよ。」
 もし
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