ともするとそれがかすかに息をしているかのように見えた。しかし、弔問《ちょうもん》客が来て、その顔の覆いが取りのけられるごとに、彼の眼にまざまざとうつるものは、まぎれもなく、氷のような死顔であった。
 本田のお祖母さんは、やっと午後になってやって来た。そして死人の前に坐るなり、いかにも絶え入るような声で、いろいろとくどき立てた。臨終の間にあわなかった詫びが、先ず最初だった。それから、
「何という美しい仏様におなりだろう。」とか、
「子供を三人もこの老人に投げかけて、一人で先に行ったのがうらめしい。」
 とか、
「どうして世の中には、こうさかさま事が多いのだろう。」とか、いったようなことを、次第に芝居じみてわめき立てた。俊亮は、それを聞きながら、眼のやり場に困っていたが、とうとうたまりかねて、
「お母さん、――お母さん――」と声をかけた。それでもまだ彼女が死人のそばを離れそうにないので、彼はいきなり立上って、彼女の肩をゆすぶり、叱るように言った。
「そんなに泣かれては、仏が迷います。それより念仏でも唱えてやって下さい。」
 するとお祖母さんは、
「ほんとうに、まあ、老人甲斐もなく、取りみだして申訳もない。なむあみだぶ、なむあみだぶ。」と、けろりとした顔をして死人のそばを離れた。そしてそれからは、「なむあみだぶ」の連発だった。
 次郎はむろんお祖母さんの闖入《ちんにゅう》によって、ひどく気分をみだされた。しかし彼はもう、彼がこれまで彼女からうけていたような強い圧迫を感じなかった。「意地の悪い敵」としての彼女が、いつの間にか「みじめな、一人ぽっちの老婆」に変りかけていたのである。
 少し落ちついたころ、葬式をどこから出すかが問題になったが、町の方にはまだ大して近づきもないし、それに、本田の墓地がこちらにあるのに、わざわざ死体を町に運ぶまでもあるまいということになった。しかし、正木の家から葬式を出すのも変だというので、この近在では例のないことだったが、途中葬列を廃して、寺で告別式だけを行うことになった。この事についても、本田のお祖母さんは、しきりに世間体を気にしていたが、寺での告別式なら正木から葬式を出したことにはならないし、正木の家はただの病院だったと思えば何でもない、と言いきかされると、彼女はそれでやっと納得《なっとく》がいった、といったような顔をした。
 まだ暑い季節だったため、入棺はその晩のうちにすまされた。子供たちは、代る代る石で棺の蓋を打ちつけたが、次郎は、力をこめてそれを打ちおろす気には、どうしてもなれなかった。釘の頭に石がふれた瞬間、彼は全身が弾きかえされるような気がした。
 入棺が終ると、彼は、何もかも最後だという気がして、急に力がぬけた。彼はもう何も見たくなくなった。真暗なところに一人でいたいような気がした。で、そっと座を立って庭におりた。木立をくぐって築山のうしろまで行くと、そこから星空が広々と仰がれた。彼は、かつてお祖父さんに教わった北極星、――「いつまでも動かない星」――をその中に見出した。彼は一心にそれを見つめた。見つめているうちに、その光は次第にうるんだ母の眼の輝きに似て来た。そして母の顔全体が、いつの間にかその周囲にはっきりとあらわれた。お浜の顔がおりおりそれにかさなった。同時に、彼の頭の中には、校番室以来の彼の記憶が、つぎつぎに絵巻物のように繰りひろげられはじめた。
 だが、この時彼の心を支配したものは、悲しみでも憤りでもなかった。彼の心はふしぎに静かだった。
 彼は、「運命」によって影を与えられ、「愛」によって不死の水を注《そそ》がれ、そして「永遠」に向かって流れて行く人生の相《すがた》を、彼の幼ない智恵の中に、そろそろと刻みはじめていたのである。

「次郎物語」は一先ずここで終る。しかし、次郎の一生がそれと同時に終りを告げたわけではむろんない。彼のほんとうの生活は、実はこれから始まるであろう。彼の家庭生活や学校生活はどう変って行くか。異性との交渉はどうなるか。そして、結局この大きな社会と彼はどう取っくみあって行くか。これらを詳《くわ》しく物語りたいのは、筆者の心からの願いである。しかし、次郎は今母に死別したばかりである。彼のこれからの生活を知っているものは神様だけしかない。で、もし何年か、何十年かの後に、この物語を読んだ誰かが、幸にして次郎と相|識《し》る機会を得、そして彼の生活に興味を覚えるとしたら、恐らくその人がこの物語のつづきを書いてくれるであろう。
[#改段]

    あとがき

 私は、これまでに、何冊かの本を書いたが、もし、一生のうちに一冊だけしか本が書けないものだとしたら、私は恐らくその一冊にこの「次郎物語」を選んだであろう。それほど私はこの本が書いてみたかったし、書いて置かなければ
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