を見まわし、三人の子供が並んで坐っているのを見ては安心するらしかった。口はほとんど利かなかった。ただ俊亮に対して、
「こんなにたびたび店をおあけになっては、あとでおこまりではありません?」と言った。それをきくと俊亮は、周囲の静かな空気に不似合な声で、大きく笑った。それは誰の耳にもわざとらしく響いた。しかし、お民はそれに対しても寂《さび》しく笑ったきりだった。
 その後二日間は同じような容態《ようだい》がつづいた。そのうちに遠方の親類も来るものは大てい来た。広い正木の家も、さすがに、病室以外はそれらの人たちでごったがえしだった。謙蔵はふだんの無口にも似ず、ほとんど自分一人で、食事や夜具のことなどを、てきぱきと指図していた。次郎は食事のたびごとにその様子を見て、いつもの謙蔵とはちがった人のように感じた。彼にとって、謙蔵はもう決して不愉快な存在ではなかった。相変らず無愛想であったが、無愛想なままに次郎には何となく頼もしく思えた。
 母の枕元に坐って、その死を予想する次郎の気持には、恭一や俊三とは比較にならないほど深刻なものがあった。しかし一方では、彼は不思議なほど落ちついていた。それは永らく母の病床に附添って、そうした気持を毎日くりかえして来たせいもあったが、もっと大きな理由は、彼が母の心をしっかりと握りしめているような感じがしたからであった。母に別れるのはたまらなく悲しい。ことに、懺悔《ざんげ》に似た心で彼に最後の愛を示してくれてからの母は、彼自身の魂そのものにすらなっている。それはもはや彼から引き放せないまでに固く結ばれているという感じそのものが、彼にある深い安心と落ちつきとを与えたのである。
 それに、彼の周囲に対する気持は、この二三日急角度に転回をはじめていた。彼はこれまで、お浜をのぞいては、ほとんどすべての人に対して、多少とも警戒して来た。俊亮や正木老夫婦に対してすら彼は心から素直にはなり得なかったのである。こうして彼は、自分を愛する者に対しても、愛しない者に対しても、常に何らかの技巧を用いた。技巧はいわば彼の本能というべきものになってしまっていたのである。ところがこの数日彼は全く技巧を忘れたかのようになっている。彼はもはや何人に対しても警戒していない。謙蔵に対してすらも、彼は何のこだわりもなく話しかけることが出来るのである。すべての人が、今や彼と彼の母にとって親しみ深い人のように思える。それはみんなの眼が母の寝顔に集中して、そのかすかな一つの動きにも一喜一憂しているからばかりではない。彼はかれ自身で知らない間に、彼自身の心から永い間の猜疑心《さいぎしん》をとりのぞいていたのである。そしてその奇蹟が、彼の生命の根である母の、真実のこもった、わずかの涙と言葉との結果でなかったと誰が言い得よう。
 お民の臨終は、俊亮たちが来てから四日目の午前九時ごろだった。それは極めてしずかな臨終だった。誰もさほどはげしい動揺を見せなかった。かすかなため息と、すすり泣きと、念仏の声とが、あるかなきかに吹き入って来る初秋の風の中に、しずかに漂った。
 臨終の少し前に、次郎たち兄弟は年の順に死水をとってやった。次郎は鳥の羽根を母の唇にあてながら、母がかすかにうなずくのを見るような気がした。彼は不思議に涙が出なかった。左右に、恭一と俊三とが、しきりに鼻をすすっている音を耳にしながら、彼はただ一心に母の顔を見つめていた。彼は母のすべてを深く心に刻みつけて置こうとするかのようであった。彼の両腕は棒のように彼の膝の上につっ張っていた。
 いよいよ臨終が宣言されて、周囲がざわめき出しても、彼はやはり石のように坐っていた。恭一と俊三とが両方から彼の顔をのぞいて立ち上ったのにも、彼は気がつかなかったらしい。
「次郎――」
 正木のお祖父さんが、うしろから、そっと彼の肩をたたいた。彼はやっと自分にかえって、眼を母の顔から放した。そして、その時はじめてすべてを諒解したかのように、彼の眼に涙がこみあげて来た。彼はいきなり畳の上につっ伏して声をあげた。
「次……次郎――」
 お祖父さんのふるえを帯びた声が、頭の上にきこえて、その手が再び彼の肩にさわった。
「坊ちゃん――。」
 悲鳴に似たお浜の声がつづいてきこえた。そしてその瞬間に、彼の顔はお浜の膝に、お浜の顔は彼の背中に、ふるえながらつっ伏していた。
 周囲から鳴咽《おえつ》の声がくずれるようにきこえ出した。その声の中を、次郎はお浜に抱かれるようにして部屋を出た。
 死体は間もなく座敷にうつされた。次郎は、お浜や俊亮や正木の老夫婦に慰められて、やっと涙がとまると、むせるように線香の匂いのする母の枕元に、默々として坐りこんだ。そして帷子《かたびら》の紋附をさかさにかけられた母の死体を、一人でじっと見つめていた。彼には、
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