て、こっそり耳うちした。それは春子が東京に去ってから数日後のことであった。
 彼は相変らず、「いじらしい子」ではありたかった。しかし、春子が去ったあと、彼が心にもない善行をつづけていくには、彼の心はあまりにも淋しかった。それでなくてさえ、花火の誘惑は、このごろ日ごとに彼の心を刺戟して、もうじっとしては居れなくなっていた。で、今日はとうとう誠吉に例の貯金の中から銅貨を何枚か渡して、誰にも秘密に、硝石と硫黄とを少しばかり買って来てもらったのである。
 彼は誠吉を手真似で制しておいて、そっと病室の方をのぞいてみた。母はしずかに眼をとじている。敷布の上をはっていた蠅が、彼女の額に飛びうつったが、彼女はかすかに眉をよせただけである。蠅はすぐまたどこかへ飛んでいってしまった。祖母も茣蓙をしいて向うむきにねている。夜中に眼をさますことが多いので、午後になると、大ていぐっすり昼寝をする習慣になっている。ことに次郎が近くにいると、祖母は安心してねるのである。
 次郎は、お祖母さんが眠っている時に出て行くのは悪いような気がして、ちょっとためらった。しかし、正木の家では、花火は危険だからと言って、なるだけ子供たちには作らせないことにしている。お祖母さんが目を覚ましている時だと、何とか口実を作らなければならないが、それも面倒だ。眠っている間に火薬の調合だけでもすましておく方が都合がよい。そう思って彼はすぐ立ち上った。そして、誠吉を顎でしゃくって先に行かせ、その後から、足音を立てないように、縁側を降りると、いっさんに築山のかげに走って行った。
 そこには、もう蝋鉢と擂古木《すりこぎ》と消炭の壺とが、誠吉によって用意されていた。二人は先ず硝石《しょうせき》を擂り、次に硫黄を擂った。擂られた硝石と硫黄とはべつべつの紙に包まれて、大事に石の上に置かれた。最後に消炭を擂るのだったが、それは分量が多いだけに骨が折れた。二人は代る代る擂古木をまわした。一人が擂古木をまわしている時には、もう一人は鉢が動かないようにその縁《ふち》をおさえていた。消炭は、指先で揉んでも、少しもざらざらした感じがしないまでに擂らなければならなかった。そのために、二人は、汗がしばしば顎をつたって鉢の中にしたたり落ちたほど、一所懸命になって擂古木をまわした。
 消炭が十分擂れたところで、硫黄と硝石との粉が、適当の割合に、鉢の中に加えられた。あとはよくまぜれば、よかったのである。しかしよくまぜるには、やはり擂古木で擂る方が一番よかった。
 で、次郎が先ず擂った。次に誠吉が擂った。次郎は、両手で鉢をおさえ、出来るだけ顔を鉢に接近さして中をのぞきながら、
「もういい、もういいよ。」と言った。
 その時誠吉がすぐ手を休めさえすれば、何事もなくてすんだかも知れなかった。しかし誠吉はおまけのつもりで、しかも最後だというのでうんと力を入れて、急速度に擂古木をまわした。
 とたんに火薬は一度に爆発した。音は高くはなかった。それはぼっとした夢のような音だった。しかし、鉢の縁とすれすれに顔を近づけていた次郎は、その音にはじかれたように、草の上に突っ伏してしまった。
「次郎ちゃん、次郎ちゃん。」
 誠吉の緊張した、しかし、人を憚《はばか》るような声が、次郎の耳元できこえた。次郎は気を失っていたわけではなかった。しかし、その声をきくまでは、彼は泥水の底に沈んでいるような気がしていた。
 起きあがって眼を開けると、まつ毛がじかじかした。顔がほてって、皮膚が変に硬ばっていた。彼は誠吉を見ながら、心配そうに訊ねた。
「僕の顔、どうかなってる?」
「まっ白だい。煙がくっついているんだろう。」
 次郎はそっと手で顔を触《さわ》ってみた。ぬるぬるしたものがくっついているような気がする。さほどひどくはないが、ぴりぴりした痛みを覚える。
「早く水で洗っておいでよ。」
 誠吉が言った。
 次郎は離室や座敷の方をそっとのぞいてから、池の水を両手で掬《すく》って、顔にもっていった。が、それと同時に彼は悲鳴に似た声をあげ、再び築山のかげに走って来た。彼の顔は、ところどころ鮪《まぐろ》の刺身のように真赤だった。誠吉は眼を皿のようにして立ちすくんだ。
 次郎は草の上に仰向けに寝ころんで、ふうふう息をした。顔全体から炎が吹き出しているような感じだが、どうすることも出来ない。彼はただ手足をばたばたさして苦痛をこらえた。誠吉は全身をぶるぶるふるわせながら、しばらくそれを見ていたが、急に声を立てて泣き出した。そしていっさんにどこかに走って行った。
 間もなくお延が子供たちと一緒に走って来たが、次郎の顔を見ると、
「あれえっ。」
 と、けたたましい叫び声をあげた。
 つづいて雇人たちがどやどやとやって来た。すこしおくれて謙蔵が来た。最後にお祖父さんが来
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