うしろについて歩いていた。
次郎は返事をしなかった。やや湿《しめ》りを帯びた彼の草履《ぞうり》が、闇の中でぴたぴたと異様な音を立てた。
「怖けりゃ、先においで。」
次郎は、ちっとも怖くはなかった。しかし、言われるままに、小走りしてお民のさきに立った。自分の体が、お民の提《さ》げている提灯のあかりを路一ぱいに遮ぎって、前が真っ暗になる。左右の稲田が、ぼうっと明るく、両方の眼尻にうつる。眼尻にうつるというよりは、じかに脳髄《のうずい》に映ると言った方が適当である。
「先に行くなら、提灯をお持ち。」
次郎は提灯を持った。提灯は弓張りだった。あたりまえに提げると、その底が地べたをこするので、彼は手首を胸の辺まで上げていなければならなかった。
彼の草履の音がぴたぴたと鳴る。それが、ともすると、お民には妙な方向から響いてくるように思える。
「次郎、お前やっぱり後からお出で、足が速すぎていけないよ。」
次郎は提灯をまたお民に渡して、うしろから草履の音をぴたぴたと立てる。
「向こうから誰か来るようだね。」
お民はだしぬけにそう言って立ちどまった。次郎も一緒に立ちどまったが、しんとして人の来る気配はない。
「僕、先に行ってみるよ。」
次郎は、変に皮肉な気持になって、提灯を母の手からとると、小走りに走り出した。
「次郎っ。」
お民の声は、少しふるえていた。次郎は二三間先に立って、提灯を上げたり下げたりした。その拍子に、ふっと灯が消えて、闇がのしかかるように二人を圧さえた。
「まあ、次郎。」
お民の声は、すっかりおびえ切っている。
次郎は、闇をすかしながら、道の端っこにしゃがんだ。
「次郎、次郎や、どこにいるの。」
次郎は息を殺した。そして、逃げ出すなら今だと思った。
しかし、彼は立ち上らなかった。それは、お民が、その時、すぐそばに立っているからばかりではなかった。彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くならなかったのである。彼は真っ暗な中に、ぽつんと淋しくしゃがんでいた。
「次郎や、次郎ったら。」
お民の声は、妙にすごかった。恐怖と怒りとがごっちゃになっているような声だった。次郎はそれでも身じろがなかった。そして、お民の口から漏れる烈しい息づかいに、じっと耳をすましていた。
そのうちに二人の眼が、だんだんと闇になれて来た。お民は浮き腰で地面をすかしていたが、次郎を見つけると恐ろしい勢いで飛びついて来た。そのために次郎のもっていた提灯は、地べたに押されて、ひしゃげそうになった。
「なんてずうずうしい子なんだろう。……さあ提灯をおよこし。」
お民は、ひったくるように提灯をとると、その中に手を突っこんで、マッチを取り出した。
ぱっとともるマッチの火に照らされたお民の顔は、気味わるく硬ばっていた。
どこかで、煩悩鷺《ぼんのうさぎ》がほうほうと鳴いた。
提灯をともし終ると、お民は次郎の手を鷲づかみにして、引きずるように歩き出した。その足どりがやけに速い。次郎は、何度も引き倒されそうになったが、息をはずませながら、やっとついて行った。草履の音と、下駄の音とが騒がしく入り乱れる。
村に這入ると、お民の足どりが急に落ちついて来た。同時に握っていた次郎の手を放した。
村といっても、一本筋の場末町みたいなところで、駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋、鍛冶屋、薬屋、肴《さかな》屋などが曲りくねって、でこぼこにつづいている。その間に、種油を搾《しぼ》る家が、何軒もあって、その前を通ると香ばしい匂いが鼻をうった。
どの家からも、蚊遣《かやり》の煙がもうもうと流れ出している。次郎は、それが自分の汗ばんだ顔にこびりつくようで息苦しかった。
家なみが途切《とぎ》れて、また一丁ばかり闇が続いた。寺である。墓地の一部が、じかに路に沿っている。古い石塔が、提灯の火で煙のように見える。
次郎は、これまでお浜につれられて、夜ここを通る時には、非常に怖いところだと思っていたが、今日はそんな気がちっともしなかった。むしろ、ほっとしたような気にすらなった。そして、この墓地を通りすぎて明るいところに出ると、間もなく自分の連れて行かれる家があるのだ、と思うと、彼はいつまでも暗いところにじっとしていたかった。彼は急にぴたりと足をとめた。
「おやっ。」
暗いところに来て、再び足どりがせっかちになっていたお民は、次郎の草履の音が急に聞えなくなったので、ぎょっとして振りかえった。
「どうしたというんだよ。」
彼女は、提灯をさし上げて闇をすかした。しかし、次郎はすでにその時、路に近い大きな石塔のかげに身をひそめていたので、お民はどこにも彼の姿を見出すことが出来なかった。
「次……次郎っ。」
お民は、半ば嗄《しわが》れた声で、そう叫びながら、提灯を
前へ
次へ
全83ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング