はそれでいくらか気が強くなる。
「困った子になってしまったわ。」
次郎は、胸のしんに異様な圧迫を感じた。お浜は返事をしない。しばらくは、団扇の音だけが、ばたばたと聞える。
「とにかく、今夜はどんなことがあっても、つれて帰るつもりでやって来たんだからね。……まだ寝ついてはいないんだろう。」
急に団扇の音がやんで、誰かが立ち上るような気配《けはい》がした。
次郎は唾《つば》をこくりとのんで、爺さんの方に寝がえりを打った。そして鼾《いびき》をかくまねをした。しかし、彼の瞼《まぶた》はぶるぶるとふるえて、心臓の鼓動が乱調子なのを物語っている。
「明日になすったらどうでしょう。こんなに暮れてからでは、余計おかわいそうですわ。」
「何時だって同じさ。まさか怖いことはあるまいよ。男の子だもの。」
「でも、こんなことは、やっぱり昼間の方がようございますわ。明日になったら、今度こそ本当にご得心《とくしん》がいくように、私から申しましょうから。」
「駄目よ、お前では。……いつも、あべこべに引きとめるようなことばかり、言って聞かすんだろう。」
「そんなことはありませんわ。とにかく明日までお待ち下さいまし。私もほんとうに腹をきめているのですから。」
次郎は淋しかった。彼の鼾はふるえがちであった。
「どうだか……」お民は、もう敷居をまたいでいるらしい。次郎の鼾はひとりでに止ってしまった。
「おやおや、奥さんでいらっしゃいますか。」
爺さんが、褌《ふんどし》一つの皺だらけの体をのろのろと蚊帳の中で起した。
「坊ちゃん、おっ母さんだよ、ほら。」
爺さんの手が次郎の肩をゆすぶる。
「ううん。……ううん。」
次郎はもう一度寝返りをうって、自分の顔をお民からかくした。彼の耳は、その間にも、鋭敏に周囲を偵察《ていさつ》している。
しかし、彼のあらゆる努力は結局無駄に終った。次の瞬間には、お民の手が蚊帳の中に伸びて来て、有無《うむ》を言わせず、彼の体をずるずると板の間に引き出してしまったのである。
「まあ、そんなに乱暴になさらなくても……」
お浜の少し怒りを帯びた声が、戸口から聞えた。もうその時には、次郎は、まる裸のまま板の間にすわって、眼をこすったり、腕を掻いたりしていた。
彼は泣かなかった。諦《あきら》めとも悲壮な決心ともつかないようなものが、この時、彼の心を支配したのである。
「奥さん、どうなさいますので……」
そう言って、爺さんは蚊帳の中からのそのそと出て来た。そして次郎にたかって来る蚊を、団扇でおってやった。
戸外の縁台からは、お浜のあとについて、お作婆さんや、勘作や、お兼や、お鶴が、ぞろぞろと這入って来た。みんな土間に突っ立ったまま、默りこくってお民と次郎とを見くらべている。その中で、お浜の眼だけが、かなり険しく光っていた。ほかの人達は、ただあっけにとられたといったふうであった。
それからお民は、女教師のような口吻で、何やらながながと次郎に話して聞かした。しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も這入らなかった。彼は、その間、お浜の表情だけを、注意深く窺《うかが》っていた。その表情から、彼は彼女が本当に自分を実家に帰してしまう気でいるかを読みたかったのである。しかしお浜の眼は、険しく光って、じろじろと彼とお民とを見くらべているだけで、彼には何の暗示も与えなかった。
「わかったね。」
と、お民は、長い説教のあとで、念を押すように言った。次郎はそれに対して、無表情にうなずいた。
彼は心の中で、この時、自分の眼の前に二人の敵を見ていたのである。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」
正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。
次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。
「偉いね。」
と、正面の敵が言った。
次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。
その間に、お民は提灯《ちょうちん》に火を入れた。
二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。
「坊ちゃん、さようなら。」
次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。
「怖かあないかい。」
一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左
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