に遊びに行った。
 そのうちに、次郎は竜一にならって、春子を「姉ちゃん」と呼ぶようになってしまった。最初にそう呼ぶ機会を捉えるためには、次郎は一方ならぬ苦心をした。三人で何か取り合いっこをして、大はしゃぎにはしゃいでいる最中、竜一が、
「姉ちゃん、いけないや。」
 と言ったのを、そのまま自分も真似てみたのが始まりだった。真似てみて、次郎は顔を真赧《まっか》にした。しかし、春子も竜一も、まるで気がつかなかったふうだったので、彼は勇気を得、それから盛んに、「姉ちゃん」を連発した。そして、その日は、とうとう二人にそれを気づかれずにすんでしまった。
「あら、いつから次郎ちゃんは、あたしを姉ちゃんって呼ぶようになったの。」
 そう言って、春子が不思議がったのは、それから随分たってからのことであった。

    二六 没落

「貴方、どうなさるおつもり? 恭一も、折角ああして中学校にはいる準備をしていますのに。」
「中学校ぐらい、どうにかなるさ。」
「どうにかなるとおっしゃったって、四里もある道を通学させるわけにはいきませんわ。どうせ寄宿舎とか下宿とかいうことになるんでしょう?」
「そりゃ、そうさ。」
「そうなれば、今のままでは、とてもやっていけませんわ。いよいよ土地が売れたら、小作米だって、ぐっと減《へ》るでしょう?」
「減るどころじゃない。全くなくなるさ。」
「全く? じゃ残らず売っておしまいになりますの?」
「五段や六段残したって仕様がないし、先方でも、出来るだけまとまった方がいいって言うからね。」
「まあ! それでは仏様に対して申訳ありませんわ。」
「そりゃおれも申訳ないと思ってる。しかし、こうなれば仕方がないさ。」
「仕方がないではすみませんわ。……あたし、正木の父に相談してみましょうかしら。」
「長鹿言え。……おれの不始末は、おれが何とかする。」
「だって、一粒の飯米もはいらなくて、これからどうなさるおつもりですの。」
「食うだけは、おれの俸給で、当分何とかなるだろう。」
「俸給ですって! これまでろくに見せても下さらなかったくせに。」
「これからは、みんなお前に渡すよ。」
「みんなって、いかほどですの。」
「お前、主人の俸給も知らないのか。」
「そりゃ存じませんわ。これまで何度おたずねしても、俸給なんかどうでもいいじゃないかって、いつも相手にしてくださらなかったんですもの。」
「そうだったかな。しかし、これからは、大いに俸給を当てにしてもらうことにするよ。」
「すると、いかほどですの?」
「大たい、米代ぐらいはあるだろう。」
「はっきりおっしゃって下すっても、いいじゃありませんか。あたし、これからの心組もあるんですから。」
「そう心組にするほどのものではないよ。……そのうち俸給袋を見ればわかる。」
「まあ! 心細いこと。とにかく、恭一の学費までは出ませんわね。」
「そりゃ無論出ない。しかし土地を全部売ると、いくらか浮きが出るはずだから、当分のところ何とかなるだろう。」
「そのあとは、どうなさるおつもり?」
「町に出て、小店でも出そうかと思っている。」
「えっ?」
「何だ、変な顔をするじゃないか。」
「だって……だって……あたしには、とてもそんなこと出来ませんわ。それに、正木の父が聞いたら、何と思うでしょう。」
「仕方がないと思うだろう。」
「貴方!」
「なんだ。」
「子供たちの行末も、ちっとはお考え下さいまし、後生ですから。」
「考えているから、商売でもやろうと言ってるんじゃないか。」
「商売なんて、そんな……」
「商売が子供たちのためにならない、とでも言うのかい。」
「知れてるじゃありませんか。……子供たちは、石に噛りついても、学問で身を立てさせたいと思っていますのに。」
「だから、商売で儲けて、大学へでも何処へでも、はいれるようにしたらいいじゃないか。」
「人間は、卑しくなってしまっては、学問も何もあったものではありませんわ。」
「なあるほど、お前はそんなふうに考えていたのか。……だが、もうそんな時代おくれの考え方はよした方がいいぜ。これからの世のなかは、まかり間違えば、子供を丁稚奉公《でっちぼうこう》にでも出すぐらいの考えでいなくちゃあ……」
「まあ情けない!」
「大学を出たって、丁稚奉公をしないとは限らないんだ。」
「まさか、そんなことが……」
「あるとも、だが、今のお前の頭じゃ、何を言ったって解るまい。」
「…………」お民は横を向いた。
「怒るのはよせ。大事な場合だ。……とにかく、商売でもやるより仕方がなくなったんだから、その覚悟でいてくれ。」
「…………」
「不賛成か。困ったな。……だが、実をいうと、もう何もかも、そのつもりで運んでいるんだがな。」
「すると、この家も引払って、町に引越すんですか。」
「そうだ。い
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