次郎物語
第一部
下村湖人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)癪《しゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)以前|三味線《しゃみせん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)てこ[#「てこ」に傍点]でも
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一 お猿さん
「癪《しゃく》にさわるったら、ありゃしない。」と、乳母のお浜が、台所の上り框《がまち》に腰をかけながら言う。
「全くさ。いくら気がきついたって、奥さんもあんまりだよ。まるで人情というものをふみつけにしているんだもの。」と、竈《かまど》の前で、あばた面をほてらしながら、お糸婆さんが、能弁にあいづちをうつ。
「お前たち、何を言っているんだよ。」と、その時、台所と茶の間を仕切る障子が、がらりと開いて、お民のかん高い声が、鋭く二人の耳をうつ。
お糸婆さんは、そ知らぬ顔をする。お浜は、どうせやけ糞だ、といったように、まともにお民の顔を見かえす。見返されて、お民はいよいよきっとなる。
「お浜、あたしあれほど事をわけて言っているのに、お前まだわからないのかい。恭《きょう》一は何と言っても惣領《そうりょう》なんだからね。どうせあの子を、そういつまでも、お前の家に預けとくわけにはいかないじゃないか。」
「そんなこと、もうわかっていますわ。どうせ御無理ごもっともでしょうからね。」
「お前何ということをお言いだい、私に向かって。……お前それですむと思うの。」
「すむかすまないかわかりませんわ。まるで欺《だま》しうちにあったんですもの。」
「欺しうちだって。」
「そうじゃございませんか。恭さんをちょっと連れて来いとおっしゃるから、つれて上ると、すぐにお祖母さんに連れ出さしておいて、そのあとで、こんなお話なんですもの。」
「それで、お前すねたというのだね。」
「すねたくもなろうじゃありませんか。私にも人情っていうものがございますからね。」
「すると、恭一の代りに、次郎を預るのは、どうしても嫌だとお言いなのかい。」
お浜はそっぽを向いて默りこむ。
「何というわからずやだろうね。私に乳がないばっかりにこうして頼んでいるのに、やさしく言えばつけ上ってさ。……嫌《いや》なら嫌でいいよ、もうお前にはどの子も頼まないから。その代りこの家とはこれっきり縁を切るから、そうお思い。飯米《はんまい》に困るなんてまた泣きついて来たって知らないよ。恭一にだって、これからはどんな事があっても逢わせるこっちゃない。」
お民は、そう言ってぴしゃりと障子《しょうじ》をしめた。
「奥さん、そりゃあんまりです。あんまりです。」
お浜はしめられた障子のそとでわめき立てた。
「何があんまりだよ。」
「あんまりですわ。やっと恭一さんを一年あまりもお育てしたところを、だしぬけに、今度の赤ちゃんのような、あんな……」
「あんな、何だえ。」と、また障子ががらりと開く。
「…………」
「はっきりお言い。」
「まあまあ、奥さん、わたしからお浜どんにはよう言って聞かせましょうで……」と、お糸婆さんが、やっとなだめにかかる。
「言って聞かせるもないもんだよ。年寄りのくせに、お浜にあいづちばかりうっていてさ。」
「へへへへ。」お糸婆さんは、お歯黒《はぐろ》のはげた歯をむき出して、変な笑いかたをする。
その時、奥の方から赤ん坊の泣き声がきこえた。お民は障子をしめながら、二人をぐっと睨《ね》めつけて、おいて、その方に立って行く。
「どうせお前さんの思う通りにゃなりっこないよ。あきらめたらどうだね。」と、お糸婆さんはお浜に寄りそって小声で言った。
「やっぱり今度の赤ちゃんを預るのさ。飯米のこともあるしね。」
「あたしゃ、飯米のことなんか、どうだっていい気がするんだよ。」
「そりゃ、お前さんの今の気持はそうだろうともさ。だけど飯米もふいになるし、恭さんにもこれから逢えないとなりゃ……」
「ほんとうに逢わせない気だろうかね。」
「そりゃ、あの奥さんのことだもの。……お前さんも随分勝気だが、奥さんにあっちゃ叶《かな》いっこないよ。こうと決めたら、てこ[#「てこ」に傍点]でも動くこっちゃないからね。」
「そのうちには、恭さんもわたしたちを忘れてしまうだろうね。」
「そりゃ、何といってもね……だから、やっぱり今のうちに、お前さんの方で折れた方が何かと工合がいいんだよ。」
「でも、恭さんの代りにあんな猿みたいな子を預るのかと思うと……」
「そんなこと言うのは、およし。聞えたらどうする。」
「だって、本当だろう。お前さん、そうは思わないかい。」
「それほどにも思わないよ。そりゃ恭さんとはくらべものにならないけれど。」
「恭さんは、そりゃ生まれた時から品があったよ。」
「今度の赤ちゃんだって、育てていりゃ、そのうち可
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