さそうだ。手首の方にちょっと大きな傷があるんだが。」
「でも、硝子《ガラス》のところでなくてよかったわ。」
「ともかく、誰か早くお医者を迎えて来なさい。」
これは正木のお祖父さんの声であった。
次郎は、手首と額とに、取りあえず白木綿を捲きつけられた。
「おや着物がぐしょぐしょになっていますが、どうなすったんでしょう。」
お浜は彼を抱えて座敷の方に運びながら言った。
「そうかな、気がつかなかった。……大方倒れたはずみに発射したんだろう。」
俊亮は、何でもなさそうに言って、笑いながら、次郎を見た。みんなも笑った。次郎はまだ泣いていた。
ただお民だけが、きっとなって俊亮を睨んだ。
それから次郎は、汚れた着物を辰男のと取りかえて貰って、しずかに蒲団に寝かされた。
医者の見立てでは、手首の傷も大したことはなかった。ただ、障子の骨が突き刺さったのだから、傷あとは案外大きく残るかも知れないと言った。
医者が帰ったのは、十二時ごろだった。
俊亮は自分から泊っていくと言い出した。お浜はお民の顔色を窺っていたが、正木の老夫婦に勧《すす》められて、これも泊ることにした。本田のお祖母さんは、「次郎を預けたまま帰ってしまってはすまないが、幾人も泊りこんではなおさらすまない。」といったような意味のことを、くどくどと繰返した。で、結局お民が一緒について帰ることになった。
次郎は、傷が痛んで、よく眠れなかった。しかし、俊亮が自分と床をならべて寝ているうえに、お浜が夜どおし枕元に坐っていてくれたので、彼にとって、さほど不幸な晩であるとはいえなかった。
一三 窮鼠
年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。
菜種の花がちらほら咲きそめる頃には、次郎もいよいよ学校に通い出した。彼は学校に行くのが何よりの楽しみだった。で、毎朝恭一が、みんなに何かと世話を焼いてもらっている間に、さっさと一人で先に飛び出して行くのだった。
教室は男女一しょだった。次郎は、一番前列の窓ぎわに、偶然にも、お鶴と席をならべることになった。お鶴の頬には、相変らず「お玉杓子」がくっついていた。もっとも、彼はお鶴の右側にいたので、しょっちゅうそれが眼につくわけではなかった。
授業は初めのうち午前中ですんだ。授業がすむと、二人はすぐ校番室に行って、お浜がいつも用意
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