講じたか。それは彼らに任しておいて、私は、読者と共に、早速次郎のあとをつけてみることにしたい。

     *

 実を言うと、次郎はみんなが心配するほど危険な場所に行っていたわけではなかったのである。
 彼は、門口《かどぐち》を出ると母屋と土蔵との間の、かびくさい路地に這入って、暫くそこに佇《たたず》んだ。それから路を更に奥にぬけて、庭の築山のかげに出た。彼はそこで、永いこと寒い風にさらされながら、座敷の様子を窺っていたが、全く人の気配がないと見て、思い切って縁側から上って行った。そして、次の間の、客用の夜具を入れてある押入をあけて、すばやくその中にもぐりこんでしまった。
 絹夜具の膚触《はだざわ》りが、いやに冷たくて気味が悪かった。おまけに、皹《ひび》の切れた手足がそれに擦れるたびにばりばりと異様な音を立てるので、彼はびくびくした。
 夜具にくるまりながら、内からそっと襖《ふすま》を締めるのは、次郎にとって、かなり骨の折れることだった。が、どうなりそれをやり了《おお》せると、彼はなるだけ体を動かさない工夫をして、遠くの物音に聴耳《ききみみ》を立てた。おりおり男衆の騒いでいるらしい声がきこえて来た。しかし何を言っているのかは、まるでわからなかった。
 眼が、闇に慣れるにつれて、襖の隙間《すきま》から洩れる光線が、仕切棚の裏にぼんやり扇形の模様を投げているのが見えだした。彼は一心にそれを見詰めて、その中に日の丸や、青い波や、瓢箪《ひょうたん》や、竜や、そのほか彼がこれまでに扇面で見たことのあるいろいろの画を想像してみた。
 そのうちに、お浜や直吉の顔も浮かんで来た。同時に、彼がかつて直吉の肩車に乗って、その耳朶に爪を突き立てた折のことが、はっきり思い出された。
(直吉はいつも自分を迎えに来るからきらいだ。それさえなけれは嫌いではないんだが。……今日はもう帰ったか知らん。――でも、乳母やまでが一緒に帰ってしまったんではつまらない。)
 そんなことを考えているうちに、夜具がいつの間にかぽかぽかと温まって来た。次郎は、その中で体がふんわりと宙に浮き上るような気持になった。そして、間もなく彼はぐっすりと眠ってしまったのである。
 幾時間かの後、彼が眼をさました時には、扇形の光線など、もうどこにも見えなかった。彼は真っ暗な中で、自分が何処に寝ているかさえ、全く見当がつかなかっ
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